アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

絵画と光配列

現象学的には「実在」と思える全ては「現象」に過ぎないが、アフォーダンス理論によって詳細に言えば、全ての視覚現象は「光配列」に還元できる。人間は網膜像を見ているのではなく、網膜像を利用して光配列を見ている。

光配列は人間のみならず、視覚機能を持つあらゆる生物が共通して認識する。網膜を持たない昆虫などの生物も、人間と同様に光配列を認識し情報として利用する。

網膜像とは何か?網膜は光配列を認識する器官として人体に備わっているのであり、自然な状態において人間が網膜に投影される「網膜像」そのものを意識することはない。人間が網膜像を意識するのは絵を描くという本来的に不自然で特殊な状況においてのみである。

絵画とは何か?人間が作るあらゆる道具が人間の身体の外部化であるのと同様、絵画とは人間の網膜像の外部化である。しかし例えば石斧が人間の手と違うものであるように、絵画は網膜像とは決して同じだとは言えない。

ギブソンの定義に従うと、絵画とは光配列であり、情報を含んでいる。なぜなら光配列と言うもの自体が情報を含んでいるからである。

私も経験があるのだが、写真スタジオの部屋全体に設置された白一色のホリゾントは、何の配列もない光であり、その前に立つと壁や床の存在が消えて、自分がどのような状態に置かれているのか分からなくなって怖くなる。つまり配列を含まない光には、情報が含まれていないのである。

絵画とは範囲が限られた光配列である。常識的に言えば、これは絵画のフレームである。範囲が限られない絵画はあり得ない。

レンズをスイングする方式のパノラマ写真(iPhoneのパノラマ機能もその一つ)を全方向に拡張すると、球体写真になる(リコー シータはこの方式のデジタル画像を生成する)。つまり球体としての範囲に限定される。

白い画用紙に何も書かなければ、その面には何の光配列が存在しない。しかし点を一つ書くだけで、そこに光配列が生じ、情報が生じる。いやそれ以前に、何も書かれていない白い画用紙は、それが環境に置かれた状況として認識されるならば、光配列一部となって「四角形の面」という情報として認識できる

つまり絵画にとって「画面の形」そのものが光配列をなし「情報」となるのである。だからこそ、絵画にとって「画面の形」は重要な要素となるのである。画家がカンバスの画面比率にこだわる理由もそこにある。

以前の私は「写真」に特有の「四角いフレーム」を否定するために立体の「フォトモ」や、不定形な縁を持つコラージュ写真「ツギラマ」、180°の画角で円形画面の「デジワイド」などの手法で作品制作をしたのだが、現在では「四角いフレーム」を受け入れるようになった。

その「四角いフレーム」の意味を、アフォーダンス理論は明らかにしてくれた。絵画のフレームは必ずしも視覚である必要はないが、そこには不可避的に何らかの情報が発生し作品そのものに関与してしまうのである。