原因と結果

 フロイトラカンを読んでいると、人はしばしば結果と原因とを取り違えている、と言うことがよく分かる。と言うよりも、人間は最も根源的なところで結果と原因とを取り違えいる。なぜなら全ての人間にとって、結果だけが無前提に与えられているからである。

 

先にものがあって、それらのものに人間が勝手に名前を付けたのではない。先に名前があって、その後に名前を付けられたものが発生するのである。

 

例えば人間が先に存在し、その存在に「人間」という名前が付けられたのではない。まず「人間」という名前が存在し、その後に「人間」と名付けられる存在が生じるのである。

 

つまり人間が産まれる以前に「人間」という言葉が存在している。子供を産む前のお母さんは、その子供が産まれる以前から「自分は人間を産む」という事を知っている。つまり人間が産まれる以前に「人間」という言葉が存在している。

 

芸術家が「芸術を作り出そう」と意志したその時点では、作品としての芸術は未だ存在しない。つまり芸術というものの存在よりも先に、「芸術」という言葉が存在する。

 

新約聖書の「初めに言葉があった」という言葉が示すように、人間があるよりも先に「人間」という言葉があり、芸術があるよりも先に「芸術」という言葉があった。

「人間」という言葉が無いのにどうやっても人間は人間を産むことができるのか?同じように「芸術」という言葉が無いのにどうやって芸術を産むことができるのか?

つまり人間とはまず何よりも先にに人間」という言葉であり、芸術とはまず何よりも先に「芸術」という言葉なのである。

 

人間は、目に見えるあらゆるものに対し、次々にその名前を言い当てて行き、そのようにして人間の世界認識は成立する。というこの理論自体が原因と結果とを錯誤しているのである。

 

まず人間の認識は、言語によらない認識、動物に共通のアフォーダンスによる認識に多く依拠している。つまり、言葉とそれが指し示すものの順序は、場合によって異なっているのである。

 

人はあらゆるアフォーダンスに名前を付ける。例えば「近い」「遠い」と言うような名前である。いやこの場合のアフォーダンスはあらゆる動物が共通して利用する動物的アフォーダンスである。動物的アフォーダンスは言語に先立って存在する。

 

…いやしかし、これも結果と原因を取り違えている可能性がある。少なくともあらゆる人工物においては、はじめに言語が存在する。

 

もっとシンプルに考えれば、人間の認識世界は、言語による認識世界と、言語によらない認識世界とが重なっている。言語によらない認識世界は、人間や昆虫、単細胞動物などを含むあらゆる動物に共通している。

 

はじめに言語があり、その後に言語によって名付けられたものが生じる。ところがあらゆる人間にとっては結果が先に与えられているのであり、始まりとしての言語は隠されてしまっている。

人類史が700万年と言われているのに対し、人間の寿命はせいぜい百年に過ぎない。つまりあらゆる人間が世界に遅れて参入しているのであり、だからあらゆる人にとって結果だけが先に与えられ、それに先立つ言語はことごとく隠されている。

 

結果は原因を覆い隠す。例えば人が作る機械は機構という原因を覆い隠している。人体をはじめとする動物の身体も、外見という結果によってあらゆる原因が覆い隠されている。芸術作品も、結果としての完成された芸術作品によって、あらゆる原因が隠されている。

 

結果によって隠された様々な原因の最深部に、原因としての言語が隠されている。そして、ものの名前が一種類でないように、原因のしての言語も一語だけではないのである。