アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

内田樹 検証Blog

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内田樹先生の文章も、10年くらい前までの一時期は、それこそ片っ端から買って読んでましたが、今読むと色々とヘンな箇所に気づいてしまいますね…

例えばユダヤ教のラビと、キリスト教の神父や牧師を比較されていますが、そもそも新約聖書を読んでみると、そこには「神父」も「牧師」も「教会」すらも出てこないのです。

つまり神父や牧師などの資格はのちの時代に付け加えられたもので、その意味でキリスト教にとって本質的ではないと言えるのです。

実際、明治以降の日本にキリスト教をもたらした内村鑑三は「無教会主義」を掲げ、聖書に書かれていない教会や、神父や牧師などの資格について否定の立場を取ったのです。

そもそも、どこの馬の骨とも分からない乞食風の若者が、ユダヤ教のエライ人(パリサイ人)を次々に論破して、挙げ句の果てに人々の恨みを買って処刑されるのが、新約聖書の物語なのですね。

そんな一匹狼のキリスト教えから、なぜ聖書にも書かれない神父や牧師や教会が発生し「国教」にまでなったのか?

そうした重要なところはスルーして、ユダヤ教のラビと、キリスト教の神父や牧師を比較しても、あまり意味が無いように思うのです。

いや、そうした表面的な比較は一般にはわかりやすいですから、多くの人を分かった気にさせるロジックとしては意味があると言えるかもしれません。

それとページ2について

 

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>もともとユダヤ教は口伝なんです。

と書かれていますが、これはキリスト教も、仏教も、古代中国の諸子百家も、ソクラテスの哲学も同じです。

キリストもブッダ孔子ソクラテスも、自分では本を一切書いておらず、師の教えはしばらく口から口へ伝えられて、ある時点で文字に書き留められ、それらが編纂されて「聖なる書物」となるのです。

>本来ユダヤ教は口伝のものであって、文字化したのでは教えのもっともたいせつな「生命」が枯渇してしまう、と。いまでも、タルムードは文字のまま読んでも意味がなくて、必ず律法の導師に就いて、口伝でその解釈を学ばなければならないことになっています。

これもどの宗教も同じであって、キリスト教にしても、聖書に書かれた文字をただなぞるだけではなく、まず内村鑑三エックハルトなどさまざまな「師」による解釈があり、これは師から直接聞かされるのがベストですけど、そうで無い場合は書物で読んで、最終的には自分自身で対話を重ねながら解釈して行くしか無いのです。

そもそも精神分析家で哲学者のラカンの『ゼミネール』にしても、それはラカンの講義を文字起こしして書籍化したものですが、基本的に意味があるのはラカンの喋りであって、それを文字化したのは「死んだ言葉」でしか無いと、その本の冒頭に書かれているのです。

だから内田樹先生があげられた例の多くは、他の宗教や哲学にも当てはまる事で、「ユダヤ教ならではの特徴」とするには違和感があります。

と言うか、そう言う「違和感」は、物事を根本的にきちんと考えようとすると出てくるのであって、物事をごく表面的に捉える限り「なるほどそう言うものか」と問題なく納得できてしまうのです。

つまり内田樹先生は「無内容な納得」を売り物にしており、かつての私もそれを得るのに夢中になっていたわけです(笑)