アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

宇宙観と理論

議論が成り立つ条件とは何か?

いくつかあるでしょうが、今ちょっと読んでるウィリアム・ジェイムズプラグマティズム』冒頭に記された考えを借りれば「宇宙観の一致」がひとつ大きいとではないかと思います。

人間は人それぞれに「宇宙観」を持っていて、それがある程度一致しなければ、お互いに議論は成り立たないだろう、という事です。

人間の宇宙観とは、生物用語としての「環世界」に置き換えることができると思います。

生物は同じ「環境」に棲息していても、視覚や聴覚などのセンサー、またはその情報処理が生物種によって異なり、そのように種ごとに異なる「環世界」の中を生きるのです。

しかし、人間の場合はいわゆる本能が壊れたとされていて、動物種としての人間に固有の「環世界」はあるとは言えますが、それよりも各自が経験や学習を積み重ねて形成した「環世界」の方がより広大で、それを言い換えると「宇宙観」という事になり、各自共通性を持ちながらも「人それぞれ」という側面も大きいのです。

さて、動物に話を戻すと「環世界」が同一の個体同士、すなわち同種の個体同士では「儀礼的な争い」が成立します。

例えばオオカミ同士が争う場合、どちらがより強いかが判明したならば、その時点で争いをやめて殺し合いをすることはありません。

それはオオカミ同士では「負けのサイン」が決まっていて、そのサインを出した相手をそれ以上攻撃しないと言うように「本能」で決まっていて、そのような「環世界=宇宙観」を双方が共有しているからです。

しかし別種の動物同士が争った場合、「負けのサイン」が相手に通じず、死ぬまで攻撃を加えられる、と言う事態になってしまいます。(この具体例がローレンツ博士の「ソロモンの指輪」に出てきますが内容は度忘れしました)。

それで「議論」の話に戻りますと、お互いに「宇宙観」が一致していない者同士だと、結果としては殺し合いになります。

もちろん本当に殺すと言うことではなく、「人格否定」になってしまうと言うことです。

私としては、相手の人格否定というのは基本的にやりたくありませんから、もしそのような争いになりそうな場合は「いろいろな意見があっていいですね(^^)」で締めるのが良いのではないかと思うのです。

そもそも、各自バラバラな宇宙観を無理に統一しようとすること自体が問題で、それ自体が「殺し合い」の元になる訳です。

だったら各自それぞれの「宇宙観」を知ること自体、意味のあることではないかと思うのです。