アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

ブッダとフロイト

ブッダのことば』(中村元訳/岩波文庫)再読したが、紀元前300年ごろに編纂された最古の仏典は、フロイトとそれを引き継いだラカン精神分析と極めて内容が似ている。

ブッダは己の精神を「観察しろ」と説いているが、精神とは「欲望」であるとも説いている。己の欲望のあり方をよく観察してこれを制御することで精神の安定が得られると言うのがブッダの教えだが、これは全くもってフロイトラカン精神分析に他ならない。

フロイトは『精神分析入門』冒頭で、精神分析をマスターするにはまず自分を精神分析しなければならないとして、自分の夢分析をして見本を示している。つまり精神分析とは、健康な医者が病気の他者を他人事のように治療するのではないところを理解しなければならない。

つまりフロイトラカンが前提にしているのは、人間は誰もが精神病で健康な人は誰もいない、と言うことで、だから医者が自ら自己分析する必要がある。それで患者は医者に任せきりで受動的に治療を受けるのではなく、医者の助けを借りながら自己分析を行わなくてはならないのである。

フロイト精神分析とは薬を投与することなく、人間に潜在的に備わる自己治癒能力を引き出す行為であり、その潜在能力、自己治癒能力とは「言語」の機能に基づいている。だが現実的には、自らの言語機能を観察してこれを制御できる人はごく一部に限られる。なので実際には薬物治療が広く行われる。

「人は誰もが精神病で健康な人は誰もいない」と言うフロイトの前提に立てば、薬物治療はもちろん、たとえ精神分析をしても精神病を完全に治療することはできない。ところがブッダの説く「悟り」とは、完全なる精神治療を示しているのである。

ブッダのことば』に示されたように、怒りを完全に制御し、愛欲を完全に断ち、執着を完全に消滅させ、妄想を完全に晴らすことは常人には不可能であるように思えるが、そのような「悟り」が達成されるなら、精神病の治療は「完全」になされるのである。

しかし結局のところ『ブッダのことば』に限らずあらゆる哲学や宗教は「人は誰もが精神病である」ことを前提にその治療を目指していると言えるかもしれない。例えば『旧約聖書』の神様はなぜあんなにも怒りっぽいのか?と言えば「怒りの感情」は神様が預かっており、だから人は怒ってはならないのである

これは国家と人民の関係と相同的なのだが、国家は人民から「暴力」を預かって軍隊や警察を擁し武器を蓄えている。だから人民は暴力を振るってはならないし、武器を所持してはならない事になっている。怒りの感情を神に預け、暴力を国家に預けるならば、人はそれだけ「健康」に近づくことができる。