アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

ニーチェ『道徳の系譜学』

遅ればせながらようやくニーチェが読めるようになったのだが、これは恐ろしい本! 『道徳の系譜学』第一論文の途中までしかまだ読んでいないのだが、戦慄すべき内容にあらためて驚いてしまう。こんな本が翻訳されて出版されるのだから、今の日本はつくづく「平和」だと言えるかもしれない。

ニーチェの指摘するところによると、人間の最大の不幸は、それは人間はごく一部の優れた人間と、大多数の凡庸な人間とに、どうしても分かれてしまう、と言うことである。いやそれは、人類史的に考えれば「文明」に特有の現象だと言える。

 

なぜなら文明以前の原始状態を考えてみればわかるのだが、自然環境には常に淘汰圧が働いていて、剥き身で自然状態にさらされた人間は、そのうちの弱い者は常に淘汰され、一定以上に数を増やすことができない。

 

つまり、原始時代の人間は、数十人から百数十人程度の血縁集団による「群れ」の単位で生活していたと考えられるが、その小集団の「群れ」とは、自然の淘汰圧に耐えて生き残った「少数のエリート集団」だとも言えるのだ。

 

人間は原始時代は「少数のエリート集団」として生活していた。しかしある時、人間は自然環境の中に城壁で囲まれたシェルターを作り、農業を発明して食物の安定供給を行い、「文明」を築き上げるようになった。

 

すると、その新たな人工的環境の中では、自然の淘汰圧が格段に減少して、本来なら死んでしまうような「弱い人間」も生き延びることができるようになり、人口はそれまでの原始状態に比較して飛躍的に増加するようになった。

 

この「文明」になって飛躍的に増加した人間のその増加分は、本来の自然環境では生き残れないはずの「弱い人間」なのである。そのようにして「文明」と言う環境においては、原始時代から存続する「ごく少数の優れた人間」と、「大多数の凡庸な人間」という構成による人間集団が出来上がるのである。

例えば私自身は未熟児で生まれ保育器で育ち、母乳アレルギーのため脱脂粉乳で育ったのうな子供で、本来の自然環境であればいち早く淘汰されていたような「弱い人間」であり、同時に自然の淘汰圧に打ち勝つ力のない「凡庸な人間」だとも言えるのだ。

 

そのような理屈で考えても人間は不可避的に「ごく少数の優れた人間」と「大多数の凡庸な人間」に分かれるのであり、それがニーチェオルテガが示した人間の決定的な不幸の原因であり、それは前者にとっても後者にとっても不幸であり、救いようがないのである。

 

今の日本の状況もそうなのだが「文明」においては私のような凡庸で劣った人間が圧倒的な多人数で存在し、ごく少数の優れた人間が存在する。しかしもし、少数の優れた人間のみで構成された「原始生活」を行う集団と、文明国が争うならば、当然ながら文明国の圧勝となる。

 

なぜなら文明国の成員の大半は自然の淘汰圧に耐えられないような劣った人間ではあるものの、それらの人々はごく一部の優れた人間に教育され率いられている。だから優れたエリートのみで構成された原始生活集団に圧勝できるのである。