アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

「勝つための修行」と「戦わなくて済む方法」

引き続きニーチェを読みながら書いているが、天才とはニーチェよれば自分の能力をカテゴリーを超えて拡大しようとする意思のある者、そのための努力をする意思のある者、すなわち未知の領域を切り開く意思のある強者を指す。

 

文明は必然的に人間に精神病をもたらす。なぜなら人間にとって文明以前の狩猟採取生活こそが「本来」であり「正常」なのであり、そこに文明は非本来的で非正常な人間のあり方をもたらし、その結果人々にさまざまな「重圧」や「軋轢」をもたらし、それより生じる病を癒すために「宗教」が必要となった。

ニーチェが言うわれわれ「弱い人間」とは人工の産物だった! つまり野菜と同じで、きちんと管理してあげなければ虫に食われたり病気にやられたりするような、「野生種」や「原種」に比較して人工的で虚弱な品種なのである。

 

我々大衆にとって生きることは不快で虚しい。なぜなら我々は人間にとっての本来的な自然環境において死すべき弱い存在なのであり、それが強者の「同情」によって文明の言う環境の中に救済されたのである。だからわれわれ弱い者は、自力で生きる強い者のように「積極的に生きる意味」を見出せないのだ。

 

ニーチェはなぜ我々大衆を「畜群」と呼ぶのか?それは実に文明がもたらす安寧を享受するのは他ならぬ「弱者」だけであり、「強者」は文明内にあっても自然環境と変わらぬような厳しい「淘汰圧」に晒されているからではないだろうか?

 

一方で歴史的に大多数の「弱い者」はごく一部の「強い者」たちによって虐げられてきたという事実がある。しかし領主の厳しい年貢の取り立てによって飢餓に苦しむ農民のうち、その劣悪な環境を早々に見切って「一人だけ」そこから抜け出して自活を志した者がいたのだろうか?

つまり飢餓に苦しむ民衆は、「文明がもたらす安寧」を前提として疑わず、この前提を捨て去り積極的に「自活」への道を模索するという「強者の発想」がまったくできないでいたのである。

 

強者は文明がもたらす安寧の中にあってもその安寧を享受せず、弱者はたとえ飢え死にしようとも文明の安寧さを前提とする。

 

狼が羊を作った。家畜としての羊は自然状態ではあり得ない存在である。そして羊の群れから「羊飼い」が生じて、その羊飼いが羊を先導して狼を「外敵」として追い払った。なぜなら狼さえいなければ、羊が家畜として存在することもなく、その恨みは大きいのである。

 

ニーチェによる初期仏典の批判はなかなか難しい。なぜならニーチェによれば、私はブッダを「強者」であると誤解しており、ニーチェに倣ってその認識を覆すのが難しいからだ。しかしそこにこそ、初期仏教と大乗仏教との違いの秘密があるのかも知れない。

 

確かに初期仏教は人々にある種の「うらやましさ」を抱かせたのかもしれない。この世の苦痛から完全に解脱した心の安らぎ(ニルヴァーナ)とは、そこに至る修行が本質的に孤独なものであろうとも、ニーチェが示すところの「強者」とは異なるし、だからこそ生きることに苦しむ人々に羨ましさを生じさせる

 

つまりニーチェが言うように、初期仏教が示す解脱への道とは、弱者の理論でありルサンチマンの産物なのである。つまりこれはいかに厳しい修行であっても「敵に打ち勝つための修行」ではない。そうではなく徹底して「敵と戦わなくて済む方法」の会得なのである。

 

真の強者のように、敵を打ち負かし勝利することは、誰にでも出来ることではない。しかし誰とも戦わずに済む方法を会得することは、元が弱者の方法論なだけに、誰にでも会得できる可能性がある。つまり「誰とも戦わずに済む方法」は、簡素化して誰もが実行可能な「普及版」へとアレンジできるのだ。

 

初期仏教の厳しい修行による方法論は、修行をせずに誰でも簡単に会得できる「普及版」へとアレンジが可能であり、そこで大乗仏教が生じたのである。一方で真の強者の方法論は、原理的に「普及版」にアレンジすることが不可能なのである。そしてそれが宗教の意味だとニーチェは述べている…?