文明と前提

ようやくニーチェ道徳の系譜学』を読み終えたが、これは非常に難しい本。そもそも初期仏教とユダヤ/キリスト教を真っ向から否定しており、これを読んですぐに「理解した」と言うような人は、それらの教えから感銘を受けた経験がない可能性があるので、信用できない。

 

ともかく前提になるのが、まず文明以前の原始状態での人類は、自然的淘汰圧によって全人口が一定数に抑えられていた。そして農業の発明によって文明が生じると自然的淘汰圧の「閾」を超えて人口が爆発的に増えるのだが、その増えた分は、本来は死すべき、或いは生まれるはずのなかった人間なのである。

 

人類が原始生活から文明生活へと移行すると、「本来の」厳しい自然環境では生き残れないはずの「弱い人間」が生き延び、それによって自然環境の中では生まれるはずのなかった「弱い人間」がさらに生まれ、人口は爆発的に増加したのである。

 

一方で原始生活の厳しい自然環境に耐えうるような「強い人間」の数は、地球上にどれだけ人間の数が増えようとも、その「絶対数」は原始時代とさほど変わりがない。いや実際にそうなのかは分からないが、しかし古代から現代に至るまで「弱い人間」の数は圧倒的に多く「強い人間」の数はごく限られている

「人間は誰もが自分の意思でこの世に生まれたわけではない」と言うのは二重の意味がある。一つは文字通りの意味、もう一つは生き残るはずのなかった、生まれるはずのなかった「弱い人間」が「文明」と言う自然的淘汰圧を排除したシステムのおかげでこの世に存在するようになってしまったという意味である。

図らずもこの世に生まれ生き延びてしまった「弱い人」は、「強い人」のように積極的あるいは主体的にに生きる意味を見出せず途方に暮れる。そこで文明内を生きる「弱い人」に対して、さまざまに区分された「仕事」が与えられる。

これら「弱い人」に与えられた仕事は何のクリエイティビティもなく、「強い人」にとっては退屈きわまりなく耐えることができない。

不思議なことだが「文明」というシステムを運営し維持するためには、膨大な種類と量の「つまらない仕事」が必要となるが、「強い人」にとってそれらの仕事は退屈すぎて耐えられない。逆に言えば、大多数の「弱い人」はそのような退屈な仕事を人生の目標として欲する。

図らずもこの世に生まれて生き延びてしまった大多数の「弱い人」は、それゆえに積極的に主体的に生きる意味を見出せず、人生の時間つぶしに適した「つまらない仕事」を必要とし、同時に「他愛のない娯楽」を求める。

文明においてはどれだけ退屈な仕事であっても、それぞれが文明を成立させるためになくてはならない仕事、つまり世の中みんなの役に立つ仕事であり、だからこそ「意味」があり「価値」がある。しかしニーチェによればこれは「弱い人」の価値体系であり「強い人」はその退屈さ、無意味さに耐えられない。

例えば芸術に人生を賭けたような芸術家にとって、アマチュアの趣味のお絵描きは退屈極まりないものでしかない。しかし当のアマチュア画家にとって「趣味的なつまらなさ」こそが自分には必要なのであり、決して「偉大な芸術家」にはなろうとしないのである。

会社で働く社員がみな社長になりたいわけではない。社長になれば自分で考えて行動し、他人に指示を出さなければならず、しかもそこに「責任」が生じる。多くの人はそのような「矢面に立つ」ことを望んだりはしない。

例えばカメラメーカーから発売されるカメラには、メーカーのブランド名は記されていても、設計者の名前が記されることはない。カメラメーカーの設計者がいかに自分のアイデアによってカメラやレンズを設計したとしても、それは決して自分の「作品」にならず、自分が属するメーカーの「製品」となる。

カメラメーカーの設計者は自分の成した成果と栄誉を自分が属する組織に差し出し、そのかわりに「対価」を与えられる。いやむしろ大多数の人は自分の栄誉を組織に差し出すことで安心し、満足する。多くの人は自分一人が自分の出した成果に対して与えられた栄誉に耐えられない。そんな矢面に立ちたくない。

カメラメーカーに限らず、有名企業の写真は有名企業に所属しているそのこと自体に誇りと満足を感じている。同じように名門校の卒業生は、かつてその大学に帰属していたことに大変な誇りと満足とを感じている。これは「強者」の感覚からすれば実に不可思議な現象ことだが、人にはそれぞれ役割があるのだ。

もし、人間が「強者」だけであったなら、あるいは「強者」の割合が圧倒的に多かったなら、原理的に「文明」は立ち行かずたちまち崩壊してしまうだろう。なぜなら「強者」には絶対できない数々の「つまらない仕事」をこなす圧倒的多数の「弱者」が存在してこそ、文明は文明として維持されるからである。