アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

信仰と保留

ニーチェ『反キリスト者』を引き続き読んでいるが、思った以上に難しくて難航している。この難しさは、もしかしてキリスト教そのものの難しさかもしれない。確かにキリスト教は、自分がクリスチャンでもなく、聖書は一応読みましたと言える程度の立場からは難しい。

 

そもそも宗教の問題は難しい。だからニーチェを読むのも難しくなる。今のところ私が理解しているのは、宗教とは本質的に「国家宗教」だと言うことである。王が神から王として任命され、神の名の下に法律を制定しなければ、国家というものは成立しない。

 

現代の日本人は、神の存在など非科学的であるというに、なんとなく無神論的に考えているが、一方では徹底した無神論者になり切れずに、神の存在の問題について結論を出さずに「保留」している。この「保留」は、その意味で神の存在を認めていると言う形での、確固たる信仰だと言える。

 

日本人の多くは明確な形での信仰対象を持たないにも関わらず、「神が存在しないこと」を心のどこかで疑って、それについての判断を「保留」している。日本人が使う日本語という言語に、日本人に特有の「神」の概念が組み込まれている。

 

そのような形で、日本人に特有の「モラル」が形成されるが、モラルとはそもそも宗教無くしては成立し得ない。社会的モラルこそが宗教の現れであり、モラルこそが「神」である。だから「神」の居ないところにモラルは存在しない。そして世界の至る所、宗教が定着せずモラルが定着しない国や地域がある。

 

日本には「日本教」なるものが確かに存在する。その存在の仕方はキリスト教や仏教とはずいぶんと異なるが、確固として「日本教」と言えるものは存在する。その存在は終戦後に日本を占領したキリスト教国のアメリカの方が、より明確に認識していたのかもしれない。

 

終戦後のアメリカはマキャベッリの仕方によって日本を占領した。つまり現地人の宗教を破壊せず、そのままの形で残すことで占領を容易ならしめたのである。つまり「日本教」はアメリカによって生かされたのではなく、アメリカによって廃止できないほどに日本人は「日本教」と一体化していたのである。

 

宗教とは何か?は「日本教とは何か?」の問題を明らかにしなければ、少なくとも我々日本人にとっては見えてこないだろう。それは宗教とはそのあり方が多様であり、どのような形態の宗教が存在しうるのか?という認識の問題でもある。

 

要は宗教とは、モラルを持った国民によって国家が形成できれば、その内容や形式はなんでも構わないのである。しかし番人が満足しうる宗教=モラルのあり方は存在し得ず、それがニーチェの指摘する文明に特有の「強者」と「弱者」の問題である。

 

そのようなわけで、ニーチェの読み方が少し分かって来たのだが、ニーチェは一つには宗教を問題にしているのだから、ニーチェを理解しようとするのではなく「宗教とは何か?」を考えながら読んでいく方が“理解”ができるようになってくる。

 

宗教、と言っても普遍的宗教というものがあるわけではなく、宗教はそれぞれに異なっていてそれぞれに特殊である。だからニーチェが述べるキリスト教の特殊性を理解しようと思ったら、「日本教」をはじめとする様々な宗教の特殊性を知って比較しなければならない。