アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

ニーチェの言う「強者」の特徴

強者とは、過酷な自然環境を生き延びてきた原始的エリートの末裔である。その遺伝子は厳しい自然環境によって選別される。これに対し弱者とは、本来の自然環境では生きられない、文明成立後に発生した新しく選別された遺伝子を持つ種族である。

 

強者とは野生種である狼のようなものであり、対して弱者とは、文明成立後に狼から選別され独自に発達した犬のような存在である。強者は原始人の特性を強く受け継ぎ、認識力が発達し、環境への適応性が高い。

 

強者は弱者に対し寛容である。なぜなら強者は圧倒的多数の弱者を自らが、置かれた「環境」とみなし、よく観察してよく認識し、全てを知り尽くしているからである。一方、弱者は少数者である強者を迫害するが、そのような迫害に対し強者は実に寛容な態度を示す。

 

なぜなら強者は弱者がなぜそのような態度をとるのかを知り尽くしているのであり、腹も立てないのである。強者は自分が弱者から迫害され、排除されることを、環境として十分認識し、それだから柔軟に対応できるのである。

 

強者にとっては、どんな環境であってもそこは過酷な自然環境と変わらないのである。強者はそのように「死のリスク」のある環境に身を置かなければ「生きている」と言う実感を得ることができない。

 

安全で退屈な人生は強者には耐えられない。動物園で餌をもらって暮らす狼ほど惨めな存在はないのである。

一方で羊は人に飼われながら餌をもらうのが幸せで、逆に荒野に放り出された羊ほど不幸な存在はないのである。

 

弱者は安寧で不動の環境を求める。弱者が求めるのは究極的には天国であり極楽浄土である。

強者はむしろ、環境の変化そのものを求める。環境が変化してこそ、自らの能力が発揮できるからだ。

 

弱者はむしろ、自分の能力はなるべく発揮したくないのである。能力を発揮しなければならなくなった時、それは「緊急事態」であり出来るだけそうなるのを避けたいと願っている。

 

環境が変化したなら、それに応じて自分も変化しなければ環境に適応できない。強者はいかようにも自分を変化させる柔軟性を持っており、それが優れた能力となっている。

 

これに対し弱者は今のままの自分に固執し、決して自分を変えようとしない。それは環境変化に弱く、自分が今いる環境に固執する性質と表裏一体の関係にある。

弱者は何も知ろうとせず、何も認識しようとしない。なぜなら何か新しいことを知り、認識してしまうと、それまでの自分が別の自分へと変化してしまうからだ。だから弱者は何も知ろうとせず、何も認識しようとせず、深く悩む。

これに対し、強者は自分に悩みが生じた際は、その原因を知ろうとし、問題解決の方法を認識し、従って考えはするが悩むことをしない。

 

強者は環境に適応することを目的に生きる。そのために自らが適応すべき新しい環境を自ら作り出す。言ってみれば、自らピンチを招く状況を作り出し、それを切り抜けることに生きがいを見いだしている。

 

もちろん弱者はそのような生き方に耐えることができない。弱者が求めるのは安全であり、安心であり、安寧である。そのために自分はできるだけ「何もしたくない」のである。

 

もちろん弱者もただ生きながらえるだけでは退屈で、「生きがい」や「娯楽」を必要とする。しかし弱者が求める生きがいとは、あくまで舞台俳優ではなく「裏方」であり、弱者が求める娯楽とはこれも舞台俳優ではなく「観客」なのである。

 

つまり弱者は生きがいにおいても娯楽においても、自分の身を投じて何かをすると言うことがない、その意味で「何もしない」のと同じなのである。

 

強者はいつも忙しく、休まる時がない。原始時代の原始生活において、じっくり熟睡をしようものなら、いつ凶暴な肉食獣に襲われるかも分からない。強者の祖先である原始人は、そのような過酷な自然環境を生き抜いてきたのである。

 

強者は広範な分野に対して好奇心旺盛で、常にそれらについて知ろうとして忙しい。また強者は目まぐるしい環境の変化へと自らを追い込み、その適応に忙しいのである。