アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

ニーチェと資本主義

資本主義の「資本」とは単なるお金ではなく「お金を増やすためのお金」である。そして「お金を増やすお金」であるところの資本は金額が幾らでも良いと言うわけではなく、「一定程度以上の大きな額のお金」を指す。だから資本主義とは単なるお金主義ではなく「大きなお金主義」と表現できる。

 

資本主義の定義はいろいろあるが、基本的には資本家(お金持ち)が、生産手段(工場など)を有し、労働者を雇用し、生産を展開するシステム、である。

 

ある程度以上のお金があれば工場などの設備を買い揃え、労働者を雇って商品を生産し、それを販売して利益を得て、そうやってさらにお金を増やすことができる。と言うのが資本主義のシステムである。

 

最近では(お金を持っている)資本家が金を出して、(金を持っていない)優秀な経営者を雇い、その雇われ社長の判断によって設備を購入し人、を雇って、商品を生産し、金を増やす例もあるが、基本的な構造に変わりはない。

 

日本の資本主義は明治になって始まった。なぜ江戸時代に資本主義がなく、明治時代からそれが始まったのか?実は「資本家が生産手段を有し、労働者を雇用し、生産を展開する」と言うシステムを動かすには相当な能力が必要になる。

 

資本主義の世の中にあって、日常的な「小さなお金」を超えた、資本主義を作動できるほどの「大きなお金」を動かせる能力を持った人間は、ごく少数に限られている。このように本当にごく少数の優れた能力を持った人間を「均等な機会」によって選別しなければ資本主義は成り立たない。

 

これに対し江戸時代の日本は封建制であり、個人の能力ではなく世襲制によって身分が決まり、機会が均等ではない。そのようなシステムでは資本を動かせるほどの優秀な人材を選別し続けることができず、資本主義は成立しない。だから資本主義と民主主義は深く関係している。

 

世の中に身分制度がなく、機会の均等が与えられていたなら、どのような境遇に生まれたとしても、優秀な人間はその能力に応じて出世し、資本を動かしてさらに金を生み出すと言う、誰にでもできないような稀有な仕事を受け持つことができるのである。

 

日本の資本主義を作り上げたのは福沢諭吉で、『学問のすすめ』の冒頭で「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と説き、四民平等の世の中では学問を修めて能力を身に付けた人間は社会的にいくらでも出世できると述べた。つまりそのように能力の高い人間を出世させなければ資本主義は回らない。

 

以上のTweetは下記の番組のパクリだが(笑) このように見ると資本主義とはニーチェが理想とする「強者が伸び伸びとその優れた能力が発揮できる健全な世の中」になっているように思える。因みにニーチェ(1844-1900)は福沢諭吉(1835-1901年)は同世代である。

 

 

その意味では、資本主義はキリスト教の影響の範囲外にある。資本主義は純然たる「能力主義」で、そうでなければ複雑高度な資本主義のシステムは作動しない。いや本当はマックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読まなければならないのだが…

 

ウェーバーは後で読むとして、ニーチェと資本主義について。資本主義の世界はニーチェの理想を実現しているのに、ニーチェはなぜ不満を漏らしているのか?ニーチェはあくまでキリスト教の悪口を言っているのであり、資本主義の悪口を言っているわけではない。

 

しかし産業革命と民主主義と近代国家主義とに裏付けされた資本主義は、一方ではかつてない規模の大量の「弱者」を生み出すシステムでもあった。つまり資本主義によって様々な種類の大量の商品が生産されるようになり、そのために大量の人間がこの地球上に生息可能になったのである。

 

そのようにして増えた人間を資本家は雇って商品を生産し、その商品を増えた人間たちに買ってもらうことで、さらに資本を増やすことができる。そしてその資本を投入してさらに生産性を増し、その商品を買うことで人々は自分たちの家族を増やし、それがまた資本家に雇われる。

 

つまり資本主義とは、人間の「能力の偏在」を利用したシステムだと言える。「原始人の末裔」である「強者」の数は、原始時代からの一定数が変化しない。原始時代から文明時代に移り、それ以後に増えるのは新たな遺伝子を持つ「弱者」のみである。

 

そして福沢諭吉が『学問のすすめ』で説いた民主主義の機会均等とは、大量に生まれた「新しい遺伝子を持つ弱者」たちのうちから、ごく少数の「原始人の末裔である強者」を選別するシステムだと言えるのだ。

 

そして、資本主義はごく少数の「強者」と大多数の「弱者」がいるという、「能力の偏在」があってこそ成立するシステムなのである。全ての人間が資本家であったなら、資本主義は成立しない。多くの労働者はもらった賃金を「資本」として使うような能力を持たないその意味での「弱者」である。

 

労働者は労働で得た賃金を一つには「消費」に回すことで、資本主義に貢献する。消費とはまさに財が消えて無くなる事を意味し、そのようにして労働者は「消費者」となり、消費した分の商品を次々と永遠に購入することになり、資本家に貢献する。

 

労働者はまた、労働で得た賃金で家族を養い子供を増やす。資本主義以前の世の中では「品物」が絶対的に不足しているため、人間が子供を増やせる数が一定以下に限られていた。しかし資本主義が生み出す大量の商品によってその限界がなくなり、労働者は子を増やし、その子がまた労働者になるのである。

 

資本主義はまた、「弱者」に対してもその最適な望みを与えるシステムでもある。文明の基本とは多数の弱者を生み出しこれを養うシステムであるが、資本主義はこれに特化している。そしてそのような素地の中に、ニーチェが嫌悪した「キリスト教的価値観」が台頭する余地が生じるのである。

 

初期の資本主義社会では、労働者の酷使と貧困が社会問題化した。イギリスでもアメリカでも年端もいかない子供までもが労働者となることが常態化した。これは資本家が資本主義時代における「王」となり「暴君」となった状態と言える。

 

この現代の暴君に対し、キリスト教的倫理観が意を唱え、これに歯止めを掛けるための諸制度が整備されるようになった。つまり資本主義の世の中は、ニーチェが望んだ「強者」の価値観と、これとは正反対のキリスト教な「弱者」の価値観が拮抗したバランスで成立していると見ることができる。

だが、この資本主義に拮抗する「キリスト教価値観」は実になかなか強力で、なぜならそれも資本主義の恩恵によってより力を得ているからである。従って現代の「キリスト教的価値観」は、資本家以外の「強者」の存在を許さず、それにニーチェオルテガも憤っているのである。

 

恐らくだが「資本主義」の世界にあっては資本家と労働者以外の立場の人間は浮かばれない仕組みになっている。その近代において「純粋芸術」の理念において金にもならない作品を生み出し、貧乏に喘ぐ芸術家が出現することは、まことに不思議である。またニーチェなどの哲学者の居場所はどこにあるのか?

 

それにしても、たった5分の動画を見ただけで資本主義の何たるかがだいぶ理解できたのだが、以前は「景気が一向に良くならない」などと言われても何の事なのか?全くわからなかったが、今なら明瞭に理解できる。まぁ何も知らなくとも生きて行けるのが資本主義ではあるのだが…