アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

覚悟と思想



高橋由一の自画像、改めて見るとクソのように下手くそで呆れるが、最近よく分かったのは絵が下手な人は「上手くなろう」という「覚悟」が無いこと。北斎にはその「覚悟」があって死の間際までそれを貫き落とした。由一は覚悟が全然なくて「素材」で誤魔化してるに過ぎない。 

私が美大予備校の時代に先生教わったのは「デッサンなんか見たまま描けば良いんだから、誰でも描ける」ということ。才能はあまり関係なく、とにかく「見て」描く。下手な人のデッサンは対象物を「見ていない」ことが丸わかりで、高橋由一の油彩画はその典型の悪い見本だと言える。

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上記の「残業ゼロ」の話も、社長の「覚悟」がそれを可能にしたことが最大のポイントで、何だってまずは「覚悟」の問題なのである。しかし近代とは「テクニックの時代」でもあるので、覚悟のなさをテクニックで誤魔化す手法がまかり通っている。日本の近代では高橋由一がその先鞭なのだ。

 

日本の近代黎明期に油彩画と写真術の両方を学んだ横山松三郎と言う人がいるが、その油彩と写真を融合させた作品も、斬新なようでいて「技術だけ」に終わっている、その意味で価値のないものに過ぎない。そして現代においてこのレベルの作品はごまんと存在する。 

そして実は何を隠そうこの私自身が作家としては「技法の人」であり「技術の人」であるのだが、それだけに「技法だけ」「技術だけ」に終わらないよういろいろ考えてきたのだった。しかしそれもまず「覚悟」の問題であって、覚悟がなければそのためにはどうしたら良いのか?という考えに思い至れない。

 

私が自分がとても読めなさそうな「難しい本」を読むようになったのも、読むためには読む「覚悟」が必要で、覚悟さえあればどんなに難しくとも、だんだんとそれなりに読めるようになってくるし、何より「読書とは何か?」が分かってくる。

 

「難解な本の読み方」とか「読書とは何か?」と言うことを先に理解してから読書に挑んだとしても、そういう外からの知識はほとんど役に立たない。私も以前、高田明典『難解な本を読む技術』 (光文社新書) を読んだが今振り返ると役立たずの駄本に過ぎない。必要なのは覚悟だけで方法は後からついてくる

 

高橋由一の絵に対し、「この自画像、そもそも目が自分と向かい合ってない(まさに見てない)ですもんね。そういう意味で象徴的な絵とすら思えて来ます。」と言う意見をいただいたが、では見ないで描いた絵が抽象画なのか?と言えばそれも違うのでは?確かに抽象画はモチーフを見て描いてはないが、少なくとも画家は自分が描く絵を見て描いている。由一のような画家はモチーフも見てないし、自分の絵も見ておらず、だから絵が「弱い」。

 

結局、人間は「思想」によって「見る」。それは人間以外の動物も同じで、カエルはカエルの思想で、牛は牛の思想によって、固有の世界(環世界)を見る。そして人は何をどう見るかの思想を自ら構築できる。思想を構築しない画家は何を見て良いかがわからず、それが作品に現れる。

 

高橋由一の絵に対して「迫真の写実」という世評がまかり通っているが、そのような世評に惑わされず、自分の目で良し悪しを見抜くことが重要である。だが世評が間違えやすいように、自分の目も間違いやすい。だから間違えないよう、自分の目を鍛錬する必要がある。多くの人は鍛錬を怠って世評に頼ろうとするから、世評はますます当てにならないものになる。

 

私にはどうも、高橋由一は油絵という新技法に「逃げた」という風に思えてしまう。一般に「思想=世界の見方」を鍛えるより、技法だけをマスターする方が単純で楽なのである。それに江戸時代における油彩画は、素人を簡単に騙せるテクニックでもあったわけで、それが「世評」に繋がったと考えるとしっくりくる。

 

ニーチェが言うように認識しない人は悩む。悩みがあっても悩みを解決する覚悟がなければ、何も認識しようがなく解決のしようが無い。最も重要なのは悩みを解決しようとする「覚悟」であり、全ては後からついてくる。しかし多くの人は「覚悟」する事のストレスに耐えられず「悩み」の中に投げ込む。

 

もちろん悩むことにはストレスが伴う。しかしその悩みを解決するには「覚悟」が必要で、これにもまたストレスが伴う。だから多くの人は覚悟に伴うストレスを嫌って、慣れ親しんだ悩みのストレスへと逃げ込む。