アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

芸術と芸術の出来損ない

言語と現実は結びついている。と言った場合、二つの立場が考えられる。一つは「まず言語が先にあって、それによって現実が立ち現れる」とする立場。もう一つは、「まず現実があって、そこに言語を当てはめている」とする立場である。

そして私の「非人称芸術」は、前者の立場を取っていたのだった。それは「名付けによる創造」というコンセプトであったのだ。そしてこの「名付けによる創造」は真の意味で創造であり得るのか?という疑問が、後になって生じたのである。

「名付けによる創造」とは、そもそもが共産主義の方法論ではなかったか?つまり共産主義が成立しないという「現実」を目の当たりにしながら、非人称芸術が成立すると言えるのか?「名付けによる創造」とは、結局は「想像界」の産物であり、「信仰領域」の出来事に過ぎないのではないか?

「非人称芸術」とは錬金術で、手で触れたものが何でも金になる如く、目にしたものに「非人称芸術」の言語を当てはめるだけで、原理的に何もかもが非人称芸術に成り得るのである。そういう原理は成り立つのか?

現象学的に考えてみると、主観的な現象としては確かに存在したのである。これは自分のかつての実感としては、確実にあった。しかし「現象一般」として考えると、「現象」とは決してそういうものなのだろうか?

一般に、「自分だけがそう思ってるもの」あるいは「自分だけにそう見えるもの」は「錯覚」と言われるのである。だからその意味で「非人称芸術」とは「錯覚を生み出す技術」だと言えるのだが、現象としての錯覚にいかなる価値があるのか?

それでは錯覚と、錯覚ではない知覚との違いは何か?結局はフッサール先生が述べるように「現実への的中性」が問題となり、つまり「現実」というものが問題となる。すると「非人称芸術」とはいかなる「現実」なのか?

 

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ところで人間の意識は無意義に接続されている。だから私の非人称芸術は、無意識としての共産主義思想の影響を受けていると同時に、「フォトモ」の方も無自覚的に「別の無意識」の影響を受けている、と考えることができる。

これは私のフォトモと、もう一人フォトモを作っているマスダユタカ氏のフォトモを見比べるとよく分かる。私のフォトモは実に「正統美術」の影響を無意識的に受けているのに対して、マスダユタカ氏のフォトモにはそれが無い。

私のフォトモには確かに「正統美術」としての要素が十全だとは言えないが、しかし明瞭な「遠近法」と「節約律」が備わっているのである。私の「フォトモ」はだから、二つのイデオロギーの融合なのである。それは共産主義イデオロギーと、正統美術のイデオロギーである。

そして、「フォトモ」から共産主義イデオロギーを除外して見たとしても、そこに含まれる正統美術のイデオロギーだけで作品は十分に成立していると判断できる。これは何を意味するか?

つまり作品が成立する条件は、モチーフではなく、つまり意味内容としてのシニフィエではなく、物質としての記号表現であるところのシニフィエなのである!!!

ここで問題となるのが、自然こそが芸術だ、というイデオロギーである。かつての私は「自然こそが芸術だ」というイデオロギーの信奉者であり、その基盤の上に「非人称芸術」のコンセプトもあったのである。

しかしこれは一つのパラドックスを含んでいる。「自然こそが芸術だ」という価値観は、実はこの世に「芸術」と言うものが成立して、その後に成立したのである。そしてその「自然こそが芸術だ」と言う価値観は、真の意味での「価値」として成立していると言えるのか?

現象としての「フォトモ」の成立から考えると、実に自然をはじめとする「現実そのもの」は芸術ではあり得ず、「現実そのもの」を「芸術のフォーマット」に置き換えてこそそれは「芸術」となるのである。なぜならば芸術はそう言うものだと言う観察結果が、現実の観察から得られるからである。

あらゆる人工物が芸術なのではなく、人工物には芸術と芸術以外とが含まれている。だからこのような現実を「大半の人工物は芸術の出来損ないに過ぎない」と表現することができる。

そして「非人称芸術」とは実に、このような「芸術の出来損ない」を「芸術」だと誤解したイデオロギーに過ぎなかったのである。少なくとも戦後日本の現代美術においては、「芸術の出来損ない」を「前衛芸術」と誤解するイデオロギーが蔓延しており、「非人称芸術」その延長のある意味での最終地点だったのである。

だから自分で擁護するような言い方をすれば、私は最終地点まで行って、そこで行き詰まって折り返した。さらに言えば私だけが最終地点に行ったのであり、その他の人々はその手前で永遠に足踏みしている。

私はもう迷い無く「名付けによる創造」を否定しすべきなのである。これがなかなか出来ないでいたのは、「名付けによる創造」そのものが私自身の「発見」であったからである。

ショーペンハウアー先生の「教え」を延長して考えれば、人は「自分の発見」に縛られるのである。そして私はまさに「自分の発見」に縛られ続けており、だから「名付けによる創造」をはっきりと否定することが出来ないでいたのであった。