アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

相争う哲学的見解を超えて怒りを鎮める方法

*こちらの動画の文字起こしです。

糸崎公朗です。

今回もこの『ブッダのことば』なんですけども、これを私は再びちょっとずつ、かみしめながら、よく考えながら、吟味しながら、読んでいこうとしてるわけなんです。

 

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

 

 

それで前回『ブッダの言葉』を紹介した時にこの「怒り」の問題ですね、第一章の、とにかく一番最初に怒りの問題がこの本に出てくるんですよ。

で、翻訳者の中村元さんですが、ただ翻訳したわけじゃなくて、ものすごく詳細に研究して、そして翻訳したというものですけども、その中村元さんによる後ろの解説によると、最初の「蛇の章」が一番古いわけではないんですけども、とにかくこの経典の一番最初に「怒り」というものの鎮め方が書いてあって、それが非常に人間にとって難しい問題でありまして。

で、この前の動画では自分はこれ読んでよく解釈して、怒りの鎮め方をマスターしたみたいなことを言いましたけども、実際にはそう上手くいかないんですね。

で、そのあと色々と 考える事があったんです。

それでは、前回紹介した第一章の、最初の言葉を読んでみます。

「蛇の毒が体の隅々に広がるの薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。蛇が脱皮して、古い皮を捨て去るようなものである。」

ということなんですけども、だから「この世とかの世とをともに捨て去る」というのは、結局は自分を捨てると、そして公共のために生きるんだ、というふうにして私は解釈したわけなんですよ。

怒るのは自分ですからね、自分の怒り、自分の、たかが自分個人の怒りなんですよ。

そんなものはちっぽけなんですよ。

それより人間っていうのはもっと大きな「公共」のために生きなきゃいけないと。

ちっぽけな自分の怒りにこだわっても仕方がない、という風にして思ったんですけども、それだけだとまだまだ足りなくてですね、で、今日読もうと思ったのは、この「蛇の章」の中の3番目の「犀の角」という章がありまして、その中の、この55番目の詩なんですけども、ちょっと読んでみますね。

「相争う哲学的見解を超え、悟りに至る決定に達し道を得ている人は「我は知恵が生じたもはや他の人に指導される必要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。」

 

 

これも普通に読むと難しい詩なんですね。

「相争う哲学的見解を超えて」いうのはいいんですけども、「自分には智慧が生じたのでもはや他の人に指導される要がない」と。

これはね、もうなんか天狗になってんじゃないかって。そんな簡単に真理に到達することなんかあるの?ってね、言うわけですよ。

そもそも自分を真理に到達して、誰にももう教わることがない、なんてほざいてるから、喧嘩になるんじゃないかと。

「お前の真理は間違ってる」とかさ、「俺が正しい」とかさ、そういう風になるんじゃないかという風に、思っちゃうわけなんですよ。

これは以前ニーチェのことを話した時にも、そういう風に述べたんですけども、私はね。結局ね、哲学的見解ですよ。

例えば「ニーチェがわかった」とかね、「フッサールがわかった」とかね、この「わかった」って何かっていうとね、結局はフッサールの言っていることそのままわかったりとかはできないんですよ。

ニーチェの言ってることをそのままわかったりもできない。

なぜかっていうと、ニーチェにはニーチェの人生があって、ニーチェ生きた時代背景があって、社会的背景があって、それは今の、この我々が生きているこの日本とは、状況が全然違うわけですね。

で、その同じ日本人の中でも「糸崎公朗」というね、この私です。

私には私の固有の人生があって、他の人と同じ日本人だからね、共通している部分 もありますけども、全然違っている部分がありますし、そもそもその読んできた本とかね、私固有の経験もあるわけですよ。

「写真家やってます。」とか「フォトモみたいな変な手法の表現で作品をつくってます。」とかね、そういうのも含めてなんですよね。「子供の頃から虫が好きで、虫の写真撮ってます。」とか、そういうのも含め てなんですよ。

だからけっきょく「ニーチェがわかる」「フッサールわかる」っていうのも、その人の固有の分かり方をするしかないんですね。だから僕は僕で、長年ニーチェになかなか手がつかなくて、なかなか読めないっていう思いがあったんですけども。

去年かな?今年かな?とにかくニーチェを読み始めたら、まあ「わかる」っていう感じはしたんですけど、それも「自分なりにわかる」ということに。

一応このチャンネルの動画では「どうわかったのか」ということの説明しましたけども、しかしそれは「これがニーチェの正解だ」という風にしては思わないし、私固有の理解の仕方でしかないんですよ。

だからそれは、究極的に言えば、誰にわかってもらう必要もないし、変に誤解されて「お前の考えは間違ってる」って議論を吹っかけられても困るって、いう問題があるんですよ。

だからまあ、批判していただくのは結構なんですけども、批判してもらっても困る領域、っていうのはやっぱり哲学にはあると思うんですよね。

でそれが一つは「固有性」という問題なんですね。

だからさっきの怒りの問題で言うと、公共性の話をしましたけども、つまり「私」に対して「公共」ということですけども、哲学においては、共通の公共的な共通見解、ま、公共と共通見解はまた違いますけどね、これは「ニーチェの解釈の正解だ」っていうのはね、全然そういう要素がないと言えないですけども哲学の入門書的に、公式見解的に「ニーチェはこういう風に言ってました。」っていう風にしていうのもね、だいぶ違うなという風にして思うんですね。

それよりもやっぱりこの時代、この前ラカンの解釈の問題を、私言いましたけれども、ラカンが講義をしたのは1950年代とか1960年代、昭和でいうと昭和30年代、昭和40年代ですよ。

そうすると小津安二郎とか、『三丁目の夕日』とか、そういう映画でいうと、昔の世界ですね、その昔の世界の人の言ったことを、今の我々の、今の時代、この私が生きている今の時代に当てはめると、また新しい解釈が生まれてくると。

それが生きた思想であり、生きた哲学なんじゃないかな、というふうにして思うわけですね。

だから「生きる」っていうのはやっぱり「個人が生きる」わけですから、固有性というのが、重要になるんですね。

でそうすると一つ、怒りの問題で言うと、この『ブッダのことば』の別の箇所にも書いてありますけども、人が怒るっていうのは、一つは「自分のことを分かってもらえない」とかね、「自分の話し聞いてくれない」とかね、そういうことで怒りが生じることがあるんですけれども、まぁねぇ、そんなの関係ないんですね。

そもそも自分の哲学的見解を「誰かわかってもらおう」とかね、思わなくていいんですね。

「誰かに聞いてもらおう」とも思わなくていいんですね。

だからこの youtube は僕にとってはすごく相性がよくて、勝手にしゃべって勝手にアップロードして、勝手に聞いてくれればいい、という風に思うわけなんですよ。

それはソクラテスの昔からそうでありまして、ソクラテスは『ソクラテスの弁明』ってね、大広場でみんなに自分の弁明をして、話を聴衆に聴かせるんですけども、誰もソクラテスの話なんて聴いちゃいなくてね、もうとにかく「死刑にしろ」ってね、死刑にしちゃってるわけですよね。

だからその意味で言うと、同じなんですよ。

ソクラテスの固有性というのも、当時のギリシャ人、同時代のギリシャ人には理解できないわけですね。

それはキリストも同じですけどね。

だからまあ、「ぶっ殺しちゃえ!」って話になるんですけど、だからそれは「ぶっ殺しちゃえ」って言う裏には、誰も話なんか聴いてないっていうね、「あいつはインチキだ!」ってんで、もう決めつけてるわけですね。

究極的に、誰にも理解されなくて、自分が死刑になろうがなんだろうが「怒らない」と。

「自分を死刑にしやがってけしからん!」ってね、そういうことは、ソクラテスもキリストも言ってないわけですよね。

ですからこの怒りの問題と関連して言うと、ブッダのこの「犀の角のようにただ独り歩め」というのは、繰り返し、繰り返される詩なんですね。

この『犀の角』っていう章がありまして、いろんな詩が並んでますけども、最後に「犀の角のようにただ独り歩め」と。

だから今日読んだところで言うと、「相争う哲学的見解を超える」と、そして「悟りに至る決定に達して道を得ている人は、「我は智慧ーが生じた。 もはや他の人に指導 される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め」 と。

それは自分だけが本当の真理に到達したというよりも、「自分固有の理解の仕方」を手に入れるっていうのがね、一つ、哲学的な段階じゃないかと。

まぁ私が言うのもなんですけどね、 そんな哲学専門家でもないし、キャリアも浅いですけども、自分の中ではね、その一つ段階に移行たしたな、っていう思いはあったんですね。

だからある程度いろんな本を読んできて、まぁ、たかが知れてますけどね、自分の範囲ですけどね、でまぁ、いろんな経験をするなかで、自分固有の哲学の仕方を理解することができたと、それがある程度高揺るぎないものだ、という実感があるわけですね。

だから、誰かの入門書の言葉を鵜呑みにするんじゃなくて、自分なりの解釈ができるようになったと。

で、それは人にとやかく言われる筋合いはないわけです。

で、もしかしたら間違っているかもしれないですよ。

だから間違ってる時は、いやもう「間違ってました!」という風にして、全面的に言いますけど、しかしそれは、人から言われるとかじゃなくて、この自分に納得して「間違ってる。」とね、それも自分の固有の問題として「間違っている。」と認めるという。

具体的に言うと、私は「非人称芸術」というコンセプトを掲げてフォトモとか作品作ってましたけども、作品ともかく「非人称芸術」というコンセプトは「間違っている」と、いう風して最近は認めているわけなんですけども、その認めるにもいろいろ理由があるんですけど、
これは自分の私の固有問題でね。

それは私の生き方だけではなくて、日本の状況取り巻く全体ですね、時代背景ですね。

一つは共産主義運動ですけども、そういうところに自分なんか全然…私は40年生まれ、
1965年生まれですから、全共闘、終わっちゃった時代で、そういうのぜんぜん意識しないで生きてきましたけれども、実はかなりに深く影響を、知らない間に受けてるわけですね。そういう自己分析を通して、「自分の考えは間違った。」という風にして、やっとのこで到達することができたわけです。

そういうまあ固有性の問題なんで、「他人にとやかく言われる筋合いはない。」と。

だからこれも相反する要素なんですけども、「他人にとやかく言われる筋合いじゃない。」レベルと、「他人の意見は受け入れますよ。」と、そういうものの併存が必要なんですけども、ただね、やっぱり自分もとにかく「他人にとやかく言われたくない。」という領域を持つっていうのが大切なんですね。

これ難しい問題なんですけどね。

だいたい、たいていの人はね、他人にとやかく言われたくなくて、もう意固地になって自分の中に凝り固まったり、 他人の意見なんか聞きたくないんですよ。

それは困る。

今回話しているのは、なかなか人に伝えるのは難しいかもしれないですけど、それとは全然違う、違う問題なんですね。

それが畢竟、怒りを鎮める問題になると。

いつも落ち着いて、心は平安で、他人の意見に動かされないと。

他人の意見に動かされない。心が動かされなければ、他人の意見も 聞き入れることができるだろう。

と、そういうお話でありました。

 

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