アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

2015-04-01から1ヶ月間の記事一覧

リアクションと乱反射

自分に対する他者のリアクションは乱反射です。完全なる反射は、まさに鏡がそうであるように、自分の姿そのものです。他者は完全な鏡ではないが故に、私のアクションに対し乱反射し、私の予想を超えたリアクションをするのです。 デカルトの「我思う故に我あ…

照射と反射

認識には「照射光的認識」と「反射光的認識」があるのでしょうか?つまり「私はこう思う」といういわゆる主観が照射光的認識で、これに対し「いや私は違うと思う」という他者の見解が反射光的認識です。それは現象学的には、どちらも「私の認識」です。 主観…

他者と恨み

時間や空間も「他者」と共同して作られます。時間も空間も、「自分」との関係において、他者が所有しているのです。時間や空間は認識の形式でもあります。認識とは、自分が他者を認識するのです。自分の目の中で他者が動き、時間や空間が生じます。 私の問題…

装置と他人

自分には、環境世界を自動的に構成する装置が搭載されています。それは他の動物に搭載されていない装置だからこそ、「装着」として対象化されます。そしてその装置は自動的に作動するからこそ、非自動的な自覚的作用によって、認識されるのです。 装置は装置…

認識と自明

自分の中に「自分」は少なくとも2人います。それは自分の環世界を構成する「自分」と、構成された環世界に生きる「自分」です。「環世界に生きる自分」は経験し、「環世界を構成する自分」は経験に先立っています。言い換えるなら「自明を構成する自分」と「…

第58回彦坂ITOSAKI塾 4月25日(土)のお知らせ

第58回彦坂ITOSAKI塾 4月25日(土)のお知らせ 詳しくは彦坂尚嘉塾長のブログ記事をご覧下さい。http://41jigen.blog12.fc2.com/blog-entry-1207.htmlみなさんの参加をお待ちしております。 ««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««««…

現象と執着

生きるためには技術が必要です。あらゆる事物を「現象」と観じるのも技術の一つです。この技術によって、事物からダイレクトに影響を受けることなく、ワンクッション置いた対応が可能になります。そもそも人が世界を捉える仕方が、いかなる方法であれそれは…

通俗と哲学

中島義道先生の本は最初の入門書『哲学の教科書』から随分たくさん読んで、一時期入れ込んでましたが、今あらためて下記の記事を読んで分かることは、ビックリするほど通俗だということです。http://linkis.com/toyokeizai.net/artic/cEeSO 中島義道先生が専…

生まれる前と死んだ後

私が「唯一の私」であるのは、私が「沢山の人間のうちの一人」であるのがその理由です。私が「沢山の人間のうちの一人」であるからこそ、私は「唯一の私」であり得るのです。 他者がいなければ私は存在しません。集合論的に、私は「私ではないものに」支えら…

自分の顔と他人の心

自分だけが「自分の心」を直接的に認識できますが、「自分の顔」だけは自分からは直接見えず、他人に向けてだけ公開されています。「他人の心」はその本人以外誰も直接認識できませんが「他人の顔」はその本人以外の、万人に向けて公開されています。 人は、…

第57回彦坂ITOSAKI塾 4月18日(土)のお知らせ

第57回彦坂ITOSAKI塾 2015/04/14(Tue)02:22 第57回彦坂ITOSAKI塾4月18日(土)【ニュース】●《個人のための芸術分析ワークショップ》5-2です。芸術鑑賞能力テストを実施。●新・人類史700万年初級入門講座●味覚鑑賞会 ソーセージ【塾の紹介】は、一番後ろ…

他者と変容態

構成の見地から言えば、動物に対して人間は、正常の場合を現す。それはちょうど、構成の見地から言って私自身が全ての人間に対する原型であるのと同様である。従って動物は本質的に私に対して、私の人間性の異常な変容態として構成される。 フッサール『デカ…

カントと善人

カント『道徳形而上学入門』冒頭を読んでみましたが、道徳や善について語られてはいるものの、カントが善人には今ひとつ思えないのです。プラトンの著作を読むと、ソクラテスの「善性」が滲み出ていて、ブッダやフッサールも同様ですが、そこに感銘を受ける…

共同作業と参与

誰にでも共通していることは、人は誰でもいつかは死ぬ、と言うことです。人間の自然的感受性は、暑いとか寒いとか空腹であるとか痛いとかなど、は「死」に向いています。共同体としての人間の中心に「死」があり、その辺縁が個人個人の生なのでしょうか? 目…

アーティストと地点

これからアーティストになろうとする人も、アーティストととしてある程度キャリアを積んできた人も、それぞれの「地点」に立っています。そこで必要なのは、その地点が何なのかという自分の位置確認です。それは動物が生きる上で必要なことです。 動物にとっ…

辺縁と共同体

精神とは何か?人間の精神は共同体の産物です。精神は言葉の産物であり、言葉とは共同体の産物だからです。いや、産物なのではなく、言葉とは共同体そのものであり、従って各個人の精神も共同体そのものではないでしょうか? 個人とはすなわち共同体ではない…

群体と機能分化

ブドウ、イチゴ、キャベツの収穫マシンの動画です。 まるで、それぞれを専門に食べる動物のようですが、つまりこれらは人間という動物の「口」なのです。人間の食べるための口が、機械として具現化されています。 これは何を意味するかと言えば、人間は生物…

共同体と個人主義

近代的個人主義を唱える以前に、人間は本質的に共同体を前提に生きる、群体動物なのです。近代的個人主義は、人間が群体動物であることを前提としています。人間は個人である以前に共同体として生きるのであり、共同体で生きるのが本質だからこそ、個人とい…

日常と幻覚

先日は、鬱病の友人を見て自分が、鬱病である事に気付いたのですが、これに続いて、幻聴に悩む友人を見て、自分も幻覚に悩んでいることに気付きました。幻覚とは、例えば日常です。日常は幻覚でしかありませんが、これが相当なリアリティをもって迫り、拭い…

類似と序列

人は、認識世界の中で、自分の身体を認識し、自分の身体により似たものから、より似ていないものまで序列をつけながら、認識します。例えば、目の前の他人は、足元の石コロよりは、自分に似ています。 人間が作る道具は、人間に似せて作られています。家具や…

鬱とパフォーマンス

鬱病に悩む友人を見て、ふと気付いたのですが、私自身も実は鬱病だったのです。自分では鬱病としての自覚は無かったのですが、つまり鬱病の状態が恒常化していたために、それが病気だとは気付けないでいたのでした。しかし確かに気付いてみれば、私自身は鬱…

認識と泥棒

認識とは泥棒行為です。認識者はあらゆる物事を目によって泥棒しますが、多くの人はこの点において無欲です。 時間の使い方が上手いと言われる人は、自分の時間を盗むのが上手い人です。逆に言えば、時間の使い方が下手な人は、自分の時間を盗まれているので…

世界と調整

他者の中に他者の世界構成が存在し、その中に「私」も含まれますが、その事を含めて私の世界構成の内に存在するのです。 人は互いに調整し合って世界を支えています。時代によって、場所によって、調整はズレてゆきます。

他者と鏡

人間同士の争いはなぜ生じるのでしょうか?自分と他人との争いを真横から見ると、それは他人同士の争いになります。 事実を指摘すると、指摘された人は怒ります。誰にとっても明らかで、本人も自覚している事実に対し、それを言葉で指摘すると怒る人がいるの…

他者と光

私にとって本来最初の他なるもの(最初の私でないもの)は他我である。そしてその他我が他の新しい無限の領域、即ち全ての他我と私自身を含む客観的世界一般との構成を可能にするのである。 フッサール『デカルト的省察』 世界に存在するあらゆる「それが何…

偏見と記憶

認識の大半は実は記憶でできています。例えば、目の前の歯ブラシを認識するとき、私は歯ブラシについての様々な記憶と共に、それを認識します。歯を磨いている私は、隣の部屋に家族がいることを認識しています。直接目では見ていなくとも、様々な記憶と関係…

第56回彦坂ITOSAKI塾 4月04日(土)のお知らせ

第56回彦坂ITOSAKI塾 2015/04/01(Wed)14:27 第56回彦坂ITOSAKI塾4月04日(土)【ニュース】●4月2日(木)の藤沢教室は、横須賀にアメリカ空母と、日本の旧軍艦の三笠を見に行きます。●《個人のための芸術分析ワークショップ》は、通算4人を終えて、5人目は4…

持続と記憶

フッサールによると、習性とは持続的な確信です。 そして、同一とは持続です。 「私」の中で、持続する要素と、持続しない要素とが存在します。言い換えると、持続の記憶と、記憶の消滅とがあるのです。