アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

2015-09-01から1ヶ月間の記事一覧

アリストテレス『形而上学』抜き書き

●もし個々の事物より他には何ものも存在しないとすれば、何らの思惟の対象も存在せず、存在するも全ては感覚の対象のみであり、従ってなにものの認識も無いという事になろう。 ●いやしくもある人の言うように、感覚が認識であるというので無いならば、なおま…

『彦坂尚嘉+A.A.C.L. のノイズ音楽会』に出演します

今週土曜日、私もこのライブに「演奏者」として参加します! 楽器は自作の「ウォーターリコーダー」と、壊れたアコーディオン(笑)で演奏します。写真家なのになぜ演奏するのか?と言えば、「ウォーターリコーダー」は私が美大時代に課題で作ったものの再製…

ものと他者

私の作品「フォトモ」には他者の不在が現れています。他者と向き合う事からの逃避がフォトモには現れている。だから子供からお年寄りまで様々な観客の目を引き寄せるのです。 フォトモとは一面は模型です。模型とは何か?レヴィ=ストロースによると縮小模型…

非人称と他者

私が言う「非人称芸術」の、「非人称」とは何でしょうか?それは実に自己愛の変形ではなかったでしょうか?つまり私は自己の才能に挫折し、自己が愛せない。しかし自分より優れた「他者」を愛そうとせず「非人称」を愛することにしたのです。「非人称」とは…

官能と消費

アリストテレス先生に学んでつくづく分かったのは、私は歩むべき道を間違えていたことです。つまり「路上」をひたすら歩いていたことは間違いでした。どれだけ「路上」をこうともほとんど何も蓄積されないからです。蓄積のない行為は消費です。「路上」を歩…

アリストテレス『形而上学』抜き書き

すべての人間は生まれつき知ることを欲する。その証拠としては感官知覚〔感覚〕への愛好があげられる。というのは感覚はその効用抜きにしてもすでに感覚することそれ自らの故にさえ愛好されるものだからである。#アリストテレス 形而上学1-1 しかし殊にその…

越権と気後れ

アリストテレスは人間は自然性において奴隷的であり、この奴隷性から解放された暇において哲学がなし得ると指摘しています。そして、奴隷性から完全に解放され究極の暇を手に入れた状態とは神の領域であるから、哲学とは本来的に神への越権行為だと説いてい…

アリストテレス『形而上学』抜き書き

我々が求めているもの「知恵」の名前はまさにこの同じ学に与えられる。即ちそれは第一の原理を研究する理論的な学であらねばならない。というのは善といい目的というのも原因の一種だからである。#アリストテレス 形而上学 ところで、この知恵は制作的(ポイ…

アリストテレス『形而上学』抜き書き

感覚的に知ることは、すべての者に共通した事であり、従って容易な事であって、少しも知恵ありとするにあたらない。#アリストテレス 形而上学1-1 知者は他から命令される者たるべきではなくて命令する者たるべきであり、彼が他の者に服従すべきではなくて逆…

感動と理論

アリストテレスは感覚は一つの知識ではあっても「なにゆえに」を伝えることはないと説いています。つまり芸術に対する感動は、なにゆえにその芸術が人を感動させるか?を伝えず、むしろ感動は芸術の理論を覆い隠す、ゆえに芸術の生産者は自らの感動(感覚)…

アリストテレス『形而上学』抜き書き

蓋し「経験は技術を作ったが無経験は偶運を」とポロスの言っている通りである。#アリストテレス 形而上学1-1 経験は個々の事柄についての知識であり、技術(理論)は普遍についてであるが、行為(実践)や生成(生産)はすべてまさに個々特殊の事柄に関する…

スタンドと能力

この近代人の闘士(シャルルペロー)は、法則の数か多ければ多いほど、時代及びそれを代表する芸術家は進歩していると主張していたようだ。#モダンの五つの顔 権威こそ…神学においても重要なものである。なぜならそれは真理と切り離せないからだ。そして我々…

美術と片手落ち

私は食べ物については好き嫌いがなく、例え自分の口に合わなくとも、それを美味いと言う他人がいれば「自分の舌が未熟なのかも?」と疑うことはできるのです。ところが美術についてはそうではなく、全く片手落ちと言うほかありません。 新旧論争自体はシャル…

階級とセンス

詩人や昔楽家や画家は空想を喜び幻想を好み、大づかみにいえば彼等は等しく精神的放浪者なのである。 何故かというに、空想や幻想の中には一定の目的がなく、その現実から遊離した世界の中でこそ、芸術家は精神上のプロムナード若しくはバガポンダージュを成…

圧迫と気晴らし

努力とは時間の言い換えでもあります。努力を必要としないものは即効性があるのです。そして、努力の代替物としての、努力とは異なる種類の時間が存在します。越後妻有トリエンナーレの作品がなぜかくも散在しているのか?その理由がそれでは無いでしょうか…