アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

2017-01-01から1ヶ月間の記事一覧

個人知と集合知

「レアリスム宣言」 ギュスターヴ・クールベ1855年 「私は古今の巨匠達を模倣しようともなぞろうとも思わない。「芸術のための芸術」を目指すつもりもない。私はただ、伝統を熟知した上で私自身の個性という合理的で自由な感覚を獲得したかった。私が考…

写真家と美術家

自分の肩書きについてだが、これまで私は「写真家・美術家」を名乗ってきたのだが、これからは「写真家」にしようと思って、先日『CAPA』誌でインタビュー取材していただいた際も「写真家」の肩書きにしてもらったのである。 それは写真の歴史を学べばわかる…

現実と現象

人が永遠の「今」を生きるということは、未だ何もなし得ない「今」を生きることであり、何かを成し得ることの「決断」を迫られている。 絶えず変化する相対的な目的しか持たない日常生活にとっては、相対的な明証と真理で十分である。#フッサール デカルト的…

経験と先験的

素朴な客観主義から先験的主観主義へ! フッサールの言う先験的主観主義とは何か?先験的とは辞書的には「経験に先駆けて」と言う意味だが、経験とは何か? 例えば足裏に画鋲が刺さって「痛い!」と感じる事の経験を考えてみる。実は足裏に画鋲が刺さった瞬…

永遠の「今」

人間は永遠の「今」を生きるのであり、その意味で死ぬことは決してない。しかしその「今」の内に「人はやがて死んでしまう」という確定事項が、固有の未来予測として含まれている。 人は「今」というこの瞬間に閉じ込められているのであり、「今」というこの…

「今」について

自分は死なないと思っている者は時間を無駄にする。自分はやがて死ぬことは確実であり、しかしいつ死ぬかはわからない、と知っている者は時間を無駄にしない。しかしこの「時間」とは非常に不思議なものであり「時間の無駄」と言うのもどういう事なのかも非…

演繹法と帰納法

もし我々が、自由な、囚われない目で、キリスト教の教義や教会史を眺めることができるならば、我々は一般に流布している考え方とは相反するような多くの見解を表明せずにはおられなくなるであろう。 しかしながら我々は、この世に生まれてきた最初の日から、…

認識と自己省察

昨日は東京都写真美術館の『コレクション展』と『新進作家展』を観に行ったのだが、写真というのは基本的にどれも同じ「写真」であって、その良し悪しの判断は非常に難しい、と改めて思った。そもそも写真に限らずものの良し悪しの判断は非常に難しいにも関…

言語と言語でないもの

概念とは「分けること」であり、その分ける仕方があらゆる間違いの元になる。例えば「言語」と「言語でないもの」を分けることも概念であり、その間違った分け方に人々は囚われる。 「言語」と「言語でないもの」とを分けることは、後から生じたことであって…

物質と精神

作品とは精神の物質化ではなく、精神そのものである。そもそも精神とは非物質的なものではなく、物質であろうと非物質であろうとそれは「見掛け」の問題でしかなく、精神は精神でしかなく、作品は精神そのものなのである。 作品が失われると、精神が失われる…

神と認識

芸術とは何であって、どの作品が真の芸術で、との作品が偽の芸術なのか?それはまず全知全能の神が知っているのであり、人間が芸術を認識するとは、人間の認識を少しでも神の認識に近づけること、つまりは客観に主観を少しでも近づけることである。 全知全能…

完全な認識と類似物

観察と言うのは、自分と対象物との関係を測る事ではなく、対象物と対象物との関係を測る事である。例えば昆虫の観察をする場合、自分はチョウは好きだがガは嫌いだというふうに、自分と対象物との関係を測っても、それを自然観察とは言わない。 食べ物の観察…

明けましておめでとうございます!

明けましておめでとうございます! 今、ふと気づけば2017年の元旦という過去に戻っていて非常に驚いているのですが、今からなら後悔したことを何だってやり直し出来るし、何だって取り戻すことができるし、何でもまだ間に合います!これは実にすごいことです…