アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

2017-01-01から1年間の記事一覧

客観と類

常識を基盤とした思考と、常識の基盤とは何かを思考する思考とがある。 言語は自分で作ったものではなく、自分が生まれる以前から存在し、他人から教わるものである。 他人から教わらなければ、自分にとって言語は存在しないし、言語を言語として機能させる…

デッサンとエンジニアリング

伝統的にエンジニアリングの本質は美術にあったのである。いわゆるエンジニアリングが存在しなかった産業革命以前において、エンジニアリングの本質は一つには美術に存在した。 それが産業革命以後、エンジニアリングの本質はいわゆるエンジニアリングに移行…

中国の歴代名画記

『歴代名画記』張彦遠撰を読んでるが、wikiによると張彦遠(ちょう げんえん、生没年不明)は中国の晩唐(9世紀半ば - 10世紀初頭)の士人にして著述家、絵画史家。中国最古の絵画史とされる『歴代名画記』を著し画史の祖と称された。また書論として著名な『…

美術家と美術評論家

ヘンな話ですが、私はその昔、美術評論家と呼ばれる方々が非常に怖かったのでした。例えば私は1999年に『キリンコンテンポラリー・アワード』というアートコンペに応募して受賞したのですが、その時の審査員である椹木野衣さんも非常に怖かったのです。 いや…

劣等感と解消

モチーフと技法は芸術にとってはどちらも不可分である。私の場合は、けっきょく好きなものを好きなように表現してきたのだが、そのモチーフと技法について、どちらについてもいろいろ理屈をこねてきた。それはそうしなければ、作品を展開することができず、…

秩序と無秩序

原始に還元した美術。現代人は悪しき理性によって、個人の本来性を抑圧してるのであって、それを解放することが芸術表現になる、と言う岡本太郎の主張。 非人称芸術の前提には才能論があり、その敗北がある。人の能力の優劣は努力では決して埋められないと言…

近代とイデオロギー

やっと分かってきたのだが、イデオロギーとは近代の産物なのである。つまり近代かによって、それまでの価値観が全否定されると、新しいイデオロギーの構築が必然的に必要になる。 私の非人称芸術が共産主義の影響を受けていたという以前に、そもそもイデオロ…

オブジェと共産主義

お金を何となく汚いものと思うのも、アートとお金は根本のところで無関係だと思うのも、ものを正せば共産主義の影響を無自覚的に受けているのである。自らの共産主義は浄化されなければならないが、そのためには自らの共産主義を対象化し、自覚化しなければ…

近代とイデオロギー

ようやく分かってきたのだが、イデオロギーとは近代の産物なのである。つまり近代化によって、伝統的なそれまでの価値観が全否定されると、新しいイデオロギーの構築が必然的に必要になる。 私の非人称芸術が共産主義の影響を受けていたという以前に、そもそ…

安心と既成

私自身、安心への志向性が強かったのは、まずは明瞭に自分は劣っているという意識があったのだが、それは明瞭に学校の成績によってそのように明瞭にランク付けされたからである。いやそれで安心を得る道はただ一つで、勉強すればいいだけの話だが、私にはど…

安心とランキング

人々はなぜこうも安心への志向性が強力なのか?自分の経験を反省しながら考えてみるならば、人は子供の頃から社会においてランク付けされながら生きている。このようなランク付けは便宜的なもので気にしなければいいはずではあるが、実際的にはそうはいかな…

安心と記号

フロイト『夢判断』を読んでいるが、フロイトの「夢の中では…」という言い回しは、目覚めている人にも当てはまる。なぜなら多くの人は安心への志向性が強く、目覚めながら安心を得るという夢を見つつ現実から目をそらし続けているからである。 その言い方を…

権威と自然

権威の否定には二重の意味がある。一つは実質的が無いにもかかわらず権威だけがある状態に対する否定。もう一つは権威そのものの否定である。ところが、権威を否定しようとする側の者も「自分にこそ権威がある」と主張するのであり、誰も権威そのものを否定…

認識と志向性

私の場合は「階級闘争」などという言葉は一応聞いたことがある程度で、それが具体的に何を意味するのかは知らないし、自分には全く関係のない古い時代の概念だと思っていたのだが、いま改めてマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読むと、私自身の思考の…

幽霊と共産主義

ヨーロッパに幽霊が出る__共産主義という幽霊である。と言うのはマルクス『共産党宣言』の書き出しだが、反省すると結局のところ私自身も共産主義の亡霊に取り憑かれていたに過ぎなかった。 私が物心ついた頃は、全共闘運動などの日本の左翼運動は終わって…

純粋と総合

極端の対義語は総合でもある。極端な人は総合力を欠いている。中庸は総合の類義語でもあって、中庸でいるためには総合力を必要とする。極端はまた純粋の類義語でもあり、純粋は総合の対義語でもある。

現代人と野生の思考

「生活者」として必要な事は、ブリコラージュの素材となる引き出しをいかに多く持つか、という事だが、現代人の多くが実にこの引き出しの数が少ない。対してレヴィ=ストロースが報告する未開人は引き出しの数が多くサバイバル能力が高い。現代人は「野生の思…

考えと記号

考えが前に進まないときは、考えそのものがブリコラージュに陥っていて、考えの対象が記号化しそれ以上分解不可能になっている。例えば「芸術が分からない」といった場合の「芸術」や、金儲けの仕方が分からないと言う場合の「金儲け」がそれに当たる。 エン…

安心と主張

或云(あるひという)。世の宗門の趣意を、一筋に死後の冥福を祈張ることと思ふは、大なる心得違なり。世界中宗旨の数, 如甚夥多し。其説、千緒万端なれども、概して之を云へば、現在未来に拘はらず、唯安心の地を求るなり。 #福沢諭吉 或云随筆 福沢諭吉先…

ゲームと儀礼

科学と同じくゲームは構造から出来事を作り出す。従って競技が現在の工業社会において盛んであることは理解できる。それに対して儀礼と神話はブリコラージュ(工業社会はこれをもはやホビーもしくは暇つぶしとしてしか許容しない)と同様に、出来事の集合を…

専門家と素人

最近、集中的に反省したおかげで、だいぶ分かってきたのだが、私には美術家として気負いがあったせいで、美術に対しかえって「不透明」な態度で接していたのだった。 これに対し後から学ぶようになった哲学に、私は何の気負いもなく、つまり「自分の哲学を打…

意味と間違い

私の間違いは、非人称芸術を語ろうとして、芸術を語ろうとしなかった点にあった。芸術を語るとは、芸術を総合的に捉えて語ることである。このため非人称芸術も芸術の枝葉の袋小路の一つとして語る必要がある。なぜなら芸術には同様の行き止まりの枝葉が、事…

エンジニアとブリコルール

下記は『野生の思考』の引用だが、非学問的思考がどういったものかが非常によく分かる。 結局のところ私の「非人称芸術」の問題は、その向こうに超えようとしながらも、実際にはその手前に留まった点にある。 そもそも「非人称芸術」というコンセプトは芸術…

意味と分類

写真術の発明で芸術は「前衛」へと向かうことになり、その指針の一つに「原始」があった。近代科学は文明人に原始との出会いをもたらし、忘却していた原始を想起させた。 それで日本の美術界では原始に回帰することが前衛であるように取り違えられ、私の「非…

環境と知性

『野生の思考』を再読しようと思って、まずは最後のサルトル批判の『歴史と弁証法』から読んだのだが、フッサールやラカンに比べたら簡単かと思ったら、思ったより難しくて手強い(笑)しかし私は時代的にこの影響を大きく受けているはずなので、その確認の…

一般と特別

自分が「特別な自分」であるならば、時代や地域などの状況に関係なく自分は「自分」として存在する。しかし自分が「一般的な自分」であることを自覚するならば、「自分とは何か」を知るために自分が属する時代や地域の状況を知ることは、極めて有効となる。 …

敗戦と日本人

極端と中庸。岡本太郎の芸術論も、赤瀬川源平の超芸術トマソンも、私の非人称芸術も「極端」であり、特定の時代と地域に根ざして偏向しており、普遍性がない。これに対して中庸とは特定の時代や地域を越えた普遍性であり、一般性である。 そこで岡本太郎の芸…

学問と一般化

反省とは何かと言えば、一つには自己を「一般化」して捉える事である。人間の自然な感情においては、自己は多くの他者たちと違う特別な何かのように実感されるが、自己をそのような例外としてではなく、多くの他者たちと立ち並ぶように一般化して捉えようと…

デカルトとアリストテレス

適切な呼称かどうか不明だが「幕の内弁当理論」と言えるようなものがあって、例えばデカルト『方法序説』後半にあった、心臓の仕組みについての論文がそれに当たる。 デカルトはその当時科学的に解明されていなかった人体の血液循環の仕組みについて「熱膨張…

曖昧とステイトメント

写真家を含むアーティストで、ステイトメントが書けなくて悩んでる人は、結局やろうとしていることが曖昧で不明確なのが原因なのかも知れません。もちろんアートの場合、言葉に表した通りの作品を作っても、それもつまらないものになりますが、だからと言っ…