アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

鏡のアフォーダンス

私は「物」を見ているのであり、写真には「物」が写っている。

 

「物」を見ることと、「写真に写る物」を見ることの違い。

「目に映る物」を見ることと、「写真に写る物」を見ることとの違い。

「目に映る物」を見ることと、「目に映る写真に写る物」を見ることとの違い。

「目に映る写真に写る物」を見ることと、「目に映る写真に写る写真に写る物」を見ることとの違い。

 

人間はミラーマンであり、その他の動物はミラーマンではない。

 

水を飲用としてのみならず「鏡」として利用するのは人間だけである。

 

「鏡のアフォーダンス」が存在する。

 

人の身体は、人の身体のみで完結しておらず、身体外部に存在する「鏡」もまた、人間ならではの身体の一部なのである。

 

進化論的に、鏡は生物身体のどの部位に発生したか?

一つは眼球の光量増幅のための反射鏡として存在する。

 

またある種の昆虫(マダラチョウ亜科の蛹など)は、鏡を擬態として利用する。

また、イカやタコの身体構造が「鏡」だとすれば、これも擬態に利用される。

 

いや違うのだ。

動物の目は本質的に「鏡」なのであり、外部に「もう一枚の鏡」を見出す人の目だけが「合わせ鏡」になっている。

「鏡」は本質的に「合わせ鏡」なのである。

 

本質認識は事実認識ではない。

 

事実を事実として見ない人は、事実が存在する証拠を隠蔽しているに過ぎない。

 

知覚するのではなく「知覚」を知覚すること。

すなわち、見るのではなく「見ること」を見ること。

そして、写真を撮るのではなく「写真を撮ること」を撮ること。

見るだけの人と「見ることを見る」人とがいるように、写真を撮る人と「写真を撮ることを撮る」人とがいる。

絵描きにも、絵を描く人と「絵を描くことを描く」人とがいる。