アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

構造と反復

人は目覚めている間もずっと夢を見ていて、その夢から逃れることは出来ず、目覚めることはない。

 

即ち、人は夢の中で傷付けば現実に傷つき、夢の中で失敗すれば現実に失敗し、夢の中で死ねば現実に死ぬのである。

 

夢の中にしか生きえない人にとって「夢でしかあり得ないもの」が「現実でしかあり得ないもの」になる。

 

つまり、現象は現実とは異なるが、現象と現実は連関している。

 

似たことが繰り返されることが「関係」と言われる。

 

記憶が反復を支えている。

 

iPhoneのカメラアプリを立ち上げると、液晶に風景が映し出される、という「現象」が生じる。

この現象は、人の認識として現れる「現象」と同一ではないが、共通する要素も持っている。

 

われわれは現実を見ているのではなく、現実が存在する「証拠」を見ている。

現実は決して直接見ることは出来ず、人は「間接的な証拠」だけを見て「現実の存在」を確信している。

 

反復の記憶が現実の存在の証拠となる。

 

移動が反復を生み出す。

 

もし、網膜に映る像が固定されてしまったならば、目は見えていても何も見えていないのと同じことになる。

 

人間は他人を見て、自分が存在する証拠を掴む。

 

自分の存在は他人が存在することの証拠となる。

 

構造とは反復であり、反復のないものに構造はない。

 

オリジナリティの高いものは内在する反復を持っている。

 

自分の絵を見ながら描く、自分の音楽を聞きながら演奏する、ということには反復が含まれ、見ないで描き、聞かないで演奏することの内に反復はない。

 

反復は生命の本質あである。

 

反復が終わると生命も終わる。

 

内在的反復と、外在的反復とがある。

 

人は「現実」を直接見ることは出来ず、人はそのように見えない「現実」が存在する証拠を集めながら、その証拠の隠蔽工作を図る。

 

「現実から目を背けている」といわれている人は、実のところ「現実が存在する証拠」の隠蔽工作を図っている。

 

人は現実が存在する証拠を見つけてはそれを隠す。