アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

敗戦後遺症と自己評価

●日本人の多くが自分の能力を実際より低く見積もって、各自の才能を封印しています。これは敗戦国民の特徴です。

他国のデータは持ってませんが、少なくとも自分の中に知らぬ間に「敗戦国民」としての精神が染み込み、自分にある種の制限が掛かっていることに気づいたのです。それは周囲の人を見て、そこに自分を「鏡像」を見ての事です。

「敗戦」の捉え方は国によって個人によって違うでしょう。しかしどのような「負の遺産」も同じですが、それを忘れて無かったことにすると、却ってそれに支配され逃れられなくなります。

戦後日本人は敗戦国民ですが、勝ち負けは誰にでもあります。お互い全力を出し勝負した場合、勝敗は確率の問題になると雑誌『子供の科学』にも書いてありました。学校の成績はどんなに勉強しても上がったり下がったりします。「負け」を過大に捉え忘却すると、いつまでも負けに囚われる負け組になります。

敗戦ということが事実として「ある」と認識していても、多くの人は自分と無関係だと思ってる時点で負けです。私自身、そのように負け続けていたことに気付いたのです。負けを認めることで勝ちの確率が巡って来ます。

贈り物は誰もが受け取っています。しかしその価値を理解できる人は少ないのです。

ベルナールによると、小人は巨人の肩の上に乗ることで、巨人よりはるか遠くを見渡すことが出来ます。これが「進歩」の概念ですが、巨人の肩に乗りながらその顔をじっと見つめるだけの人や、巨人の肩に登るのを面倒臭いと拒絶する人が多いのも事実です。

新しいものは進歩はしているが、同時に古いものより価値が無い。確かに、現代のあらゆる哲学書は、古代ギリシャプラトンの著作より価値が無い、と言えるのです。なぜならニッチ(生態学的地位)は先行する生物によって占められるからです。

●自分の好みとはなんでしょう?それは偏見です。デカルトが良心は誰にでも備わっていると言ったのはその意味です。なにを良しとするかの心が、各自バラバラなのです。

偏見の対義語は何でしょう?いろいろ解釈がありますが、一つは普遍です。各自の偏見を超えた普遍を求めることが、古来からの宗教や哲学のテーマです。ですから本来的に宗教的偏見と言うものは有り得ず、宗教と哲学は通底しているのです。