アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

構造と表層深度

「新しい表現をしても多くの人が理解を示さない」という現代の状況は、中世に似ています。中世では時間も変化も決して重要とは見做されませんでした。「新しさ」を「若さ」に託す事もなかったでしょう。現代は中世が回帰した新中世だと言えないでしょうか?

ダーウィンの進化論がもたらしたものは「時間論」でもありました。経過と共により新しく変化する時間論です。ところが実際の生物は、どれだけ観察しようとその進化をリアルタイムで確認出来ません。生物進化はその間接的証拠が論と共に示されているだけです。

生物種は進化する時には進化しますが、進化しない時はずっと進化しないまま種として同じ形態を保ち続けます。たま、代を重ねて進化を続けた種と、進化せず太古からの形態を保ち続けて来た種とが、同じ時空間に並存しています。人間の文化もまた同じです。

生物学的に見れば、現在は進化が進行中の「モダン」ではなく、進化が停滞した「中世」だと言うことができます。つまり人間文化がいかに進化の時代、革新の時代になろうとも、生物学的な存在としての人間は、あくまで進化が停滞した「中世」を生きているのです。このズレが様々な事態をもたらします。

「構造」の対義語は「表層」であり「瑣末」です。問題は、物事の表層は完全な二次元平面ではなく、ある一定の「深度」があることです。同じ表層でも深度が浅いものと深いものがあります。そして深度の深い表層が「構造」と取り違えられることがあるのです。この詐術に騙されてはいけません。

いかにも物事の「構造」を語っているようで、実際には「深度の深い表層」を語っているに過ぎない知的言説が存在します。深度の深い表層は、精緻なディテールを持ち、これが人々を魅了します。

構造主義の《構造》とは「言語の構造」や「社会の構造」「生物の構造」のように「○○の構造」という言語形式を取りません。それらの言説はあくまで「深度の深い表層」です。構造主義は例えば「言語と社会と生物に共通の構造」と言う具合に複数の異なる分野を横断するダイナミズムを有するのです。

真の意味での「構造主義」は異なる分野を横断するダイナミズムを持ち、それは常識の外部であるため、世間的に「知的」だと認識されず、トンデモや異端としてと認知されやすいのです。それはソクラテス/プラトンの時代からそうであり、《構造》とはイデアの変容でもあるのです。

世間で「知的」とされる大半の言説は「○○の構造」という単一の形式を持つ構造、即ち「深い深度を持つ表層」であり「複雑性を持つ瑣末さ」です。これらはあくまで「常識の内部」にとどまり、故に「知的」だと認識されやすいのです。

金儲けの下手なアーティストは文化的時間は進行させますが経済的時間が停滞してます。金儲けが上手いアーティストは経済的時間を進行させ文化的時間を停滞させます。

デカルトによると哲学は常識を仮住まいとし、反常識、非常識、無常識へと展開します。

永遠に変わらないものを産み出すために革命は成されます。ここに矛盾が生じているのです。

宇宙の誕生は革命であり、生命の誕生も革命であり、生物種の進化もまた革命です。人間の文化はこれを継承しています。

革命は「革命ではないもの」によって支えられ、ここに矛盾を抱えています。

生物学的に考えると、進化と停滞のどちらが正しいということはありません。進化を善とし停滞を悪とする価値観はゾロアスター教に端を発した偏向に過ぎません。

生物の歴史は、ごく短い進化の時代と、それ以外の長期に渡る停滞の時代との繰り返しです。この歴史的な運動は、人間の文化にも引き継がれます。つまり新しさに向かう進歩の時代は、はるか昔に遡る進歩の時代への復古なのです。新しいものは古い!

《構造》の対義語は《表層深度》でしょうか?表層はどこまでも表層で、構造に至ることはありませんが、そこにある程度の深度があることがミソなのです。

難解で知的な言説には2種類があり、《構造》を語るものと、《表層深度》を語るものとがあるのです。

《構造》を極めようとする人と、《表層深度》を極めようとする人とがいますが、そのどちらが優れているのか?を生物学的に言うことはできません。

《構造》は《表層深度》を飲み込もうとし、それ故《表層深度》は《構造》を排除しようとするのです。