アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

学問と流通

岡本かの子『愚かなる(⁈)母の散文詩青空文庫で読めますが素晴らしい!私は息子太郎のためにお化粧して美しいママになり、漢文、古文、フランス語、哲学、宗教、絵画、文学、音楽を学び、太郎が誇りにできる立派なママになり、だから太郎の日頃のお世話ができないの…と言った感じの内容で、とんでもないママです(笑)

以前私は「親が勉強しないのに子供に勉強を強要するのは間違いで、親が自分のための勉強を楽しめば子供もそれに倣うようになる」と書きました。が、岡本かの子岡本太郎の親子関係を見ると、それは全くの間違いであったことに気付きます。けっきょく勉強は、したい人だけがするのです。

●「子ども舌」という言葉がありますが、好き嫌いという事自体が子どもっぽいとは言えないでしょうか?好き嫌いを言う人は、その人のオリジナルな理由でその食べものを批判しますが、その事自体が子どもっぽくは思えないでしょうか?

つまり、食べものに限らず、ある対象物を、自分のオリジナルな理由によって批判する事自体が、子どもっぽいとは言えないでしょうか?その視点には普遍性、客観性が欠如し、自分の恣意的な感覚に囚われているように思えるからです。あらゆる意味で「他者」の認識が欠如した人は子どもっぽいのです。

主観と客観は、バランスと駆け引きの上に成立しているのであり、それが「中庸」であり「中道」です。主観と客観の、どちらかに偏っている人は「極端」であり、それは子どもっぽいのではないでしょうか?

客観に偏っている人は、同時に主観にも偏っています。つまり、客観を自分の主観が正しいことの根拠にするのです。これがすなわち「世間体」ではないでしょうか?

●流通知識、市場知識、量産知識、知識にもそう言ったものが存在します。それらの知識は常識に則っている、という意味では何の間違いもなく正しい知識です。しかし「あらゆる常識は間違っている」という意味で間違っています。それは市場に流通し得ない真性の知識です。

芸術がオリジナリティの追求であるように、学問もオリジナリティの追求です。ですから必然的に、真性の学問は常識から外れるのです。これに対し、常識として流通する学問があります。流通学問はオリジナリティが無く、だから世間に常識として広く流通するのです。

多くの人は流通学問、流通知識と言ったものを求めます。それは世間の人に教え伝えることができるからです。これに対し、真性の学問はオリジナリティが高く常識から外れているため、これを学んでも他人とのコミュニケーションツールには使えないのです。

世間の人が求めるのはコミュニケーションツールであり、それが「流通」なのであり、学問についても同様であり、様々な「入門書」がその役目を果たしています。

オリジナリティの高い学問を常識のレベルで翻訳しリライトしたものが「入門書」です。

例えば本場の讃岐うどんの名店は、実際に味わうとどれもオリジナリティが高くそれ故に絶品なのです。これに対し全国に流通しているうどんは無個性で、つまりお互い模倣しあって「常識」を形成しお店やブランドが違ってもおおよそ「うどんの味」しかしないのです。真性の学問と流通学問の関係も同じです

通り一遍の説明には「精神」がありません。それは通り一遍の「うどん味のうどん」に精神が無いのと同じです。