アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

視覚と覗き見

『芸術分析塾ラカン』の読書会で読んだ『精神分析の四基本原理』の「アナモルフォーズ」を読んだメモです。

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意識は影であり、あまりものでしかありません。自分とは意識であると思っている人は、自分の城を家来に占拠されてしまっています。

幸運な出会いがあれば、不運な出会いもあります。

「私は私が私を見るのを見ていた」

デカルトのコギト以前に立ち返ることが必要です。

写真の原理はデカルトのコギトに由来しています。

デカルトは、自ら提唱した「方法的懐疑」を実践出来ていないのです。

私が見ることで世界が生じるのだとすれば、私自身が見られることで生じることになります。そして私が世界を見る以前に、それに先立って私は世界に見られているのです。

知覚は知覚が掴んでいる対象の側にある。つまり網膜とはあくまで無色の平面であり、そこに知覚なるものは存在しないのです。

網膜も、脳味噌も、真っ白でそこに何も見出すことは出来ません。

私に属しているものとはなんでしょう。とりあえずそれは、法律で守られている範囲のものに過ぎません。

法律で保障されている以外の自分の所有物、言わば真の意味での自分の所有物と言えるものは、なんでしょう?人間の法律の外部に存在する野生動物は、何を自分のものとして所有しているのでしょう?或いは法律で所有が保証されることで「自分」が生じるのでしょうか?

世界を見る私が、世界の中に私が立ち現れるのを見るのです。

無化能力に意識を集中させることです。

人は自分の皮膚の隙間から、外部を覗き見しているのです。自分の顔や背後が見えないのはそのためです。

動物は臆病です。だからカムフラージュしな皮膚の隙間から、世界をそっと覗き見してるのです。

錯覚が示しているのは、全てが錯覚で有ることの証拠なのでしょうか?

人間が「袋」なのだとすれば、それを裏返したところを想像することが出来ます。

人間の視野には、眼球の構造上、1m離れたところにある直径8cmの円に相当する「見えない領域=盲点」が存在します。通常、その盲点が「見えない」のは、周辺情報により補完がなされているためなのです。

無意識と前意識があり、両者の関係があります。

言葉は穴を通る空気の振動によって生じ、穴に張られた膜の振動としてキャッチされます。

声の存在は空気の存在を証明しています。

空気の振動に包囲されています。

音が聞こえるのではなく、振動する空気の分布に包囲されているのです。