アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

思い込みと重力

●伝統を盲目的に受け継ぐことに意味はありません。しかし、学校の勉強とは盲目的にされるもので、そうでなければいい成績は取れず、受験に合格できません。日本のエリートは盲目的に突き進み、崖から海の底に転落し、そこが「地上」だと信じて、留まったままなのかもしれません。

事実としての世界を超えているものがあります。その反動として、自然至上主義と言うものが存在するのでしょうか。

人間への信頼が失われています。自己自身の過小評価はそのことの表れに過ぎません。

クラスの一番勉強できない児童に合わせて授業を進める、そのような学校は実際にどれだけあるのでしょうか?しかし現代社会そのものが、一面ではそのようなものだと言えるかも知れません。

人間は、存在しようと意思しなければ、存在し得ません。それは、人間が二本足で立っているために、そう意思して体をコントロールし続けていなければならないのと同じです。ところが存在という精神作用と、二本足で立つという生理作用とはレベルが異なるのです。

多くの人は身体的な存在としては二本足で立ちながら、精神的な存在としては自立せず、獣のように四つ脚で伏せている、とは言い過ぎでしょうか?しかし同調バイアスとは、それを意味してると言えるかもしれません。バイアスに抗することは精神的には負担ですが、だからこその自立ではないでしょうか?

精神にとっての「重力」とはドクサ=思い込みです。ドクサに抗するエピステーメーによって、人間は精神的に直立することができます。今フッサールを読んでるので、私はそんなことを言うのですが。

フッサールによると、人間の精神の直立を可能にするのは人間の理性に対する信頼です。この信頼が揺らぐと、人は重力=ドクサに囚われます。デカルトは、自分の判断に自信がない場合には常識に従うのが良い、と『方法序説』に書いてますが、その常識こそがドクサです。

フッサール曰く「我々は歴史の統一的な意味の解明によってのみ、自己理解を獲得し、またそれによって内的な支えを獲得できる」。つまり歴史=his storyとは誰か第三者のストーリーではなく、自分自身が解明し獲得すべきストーリーなのです。

我々が、文化の崩壊のなかを生きていることは、あらゆる証拠によって明らかです。この崩壊の中、建設のために戦うことが、この意味を理解する者の使命です。分かっちゃった人は、嫌でも参戦せざるを得ません。

多くの人は、自分自身のスペックを低く見積もって、信頼していないのです。だから自分には哲学は出来ないと、最初から諦めています。私もそうでしたが、実際にはそんなことはないのです。哲学とは自己のスペックに対する信頼の獲得であり、その意味で決して難解なものではありません。

哲学が難解であるのは単にイメージでしかありません。このイメージは人々の自分自身に対する信頼を奪うことに一役買っています。これは陰謀ですが、主体が存在しない陰謀で、それ自体が自律した幽霊のようなものです。哲学を難解だと恐れる人は、幽霊に惑わされているのです。