アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

ネタとマジ

ネタにマジレスは恥ずかしいですが、実はもっとマジな問題を孕んでいます。例えば古代ギリシャの知識人(ソフィスト)達に対して「お前らマジな振りして全部ネタやんけ!」とマジレスして死刑になったのはソクラテスでした。

「ネタにマジレス」という言葉があるように、アートにもネタとマジとがあります。マジなフリしてネタでしかないアートに対し、その事実を指摘するようなマジレスをしてはいけません。誰もがネタを承知でマジなフリして付き合っているのです。大切なのは付き合いで、それが現代の批評の意味なのです。

人生もマジに生きる人と、ネタで乗り切る人とがいます。人生ネタで乗り切ってる人にマジレスしても仕方ありません。議論が成り立たないとはこの事です。

あるいは、マジなフリしてネタで乗り切ってる人と、ネタのフリしてマジに生きる人とがいます。

ネタにもいろいろありますが、一つは金儲けのネタです。ネタをマジに受け取る人が、金を払ってくれるのです。

マジなものは歴史に残り、人類の遺産として後代に受け継がれます。しかし同時代の世間で評価され、富や名声を得るのは非常に困難です。そこでこれらを可能にするネタが登場します。歴史に残ることをマジに考えたらネタにはならず、金儲けや名誉を考えたらマジにやってはいられません。

現象学は、普通の感覚ではマジに存在すると思える外部世界が、自分の脳内に生じるネタでしかないことを見抜きます。脳内のネタはイメージのような単なるネタではなく、ネタでありながらマジな法則や規則に支配されています。

マジと思えるものはネタであり、ネタと思えるものはマジであり、その繰り返しです。ネタとマジはバームクーヘンの層のように無限に折り返しています。多くの人はネタとマジとを取り違え錯綜します。だから哲学者はこれらをマジに正確に切り分け、認識しようとするのです。

何でもネタとして受け流す人は、何でもない事をマジに怖がっています。

プラトンや初期仏典やフッサールラカンを読むと、あまりにもマジなのにマジ驚きます。私が以前によく読んでいた哲学や宗教の入門書は、マジなテーマを扱ったネタでしかありませんでした。

お互いマジに付き合うと結局はケンカになりますから、誰とでもネタで付き合うくらいでちょうど良いのです。人間は本質的には弱く、ケンカが苦手なのです。鍛えた人は武闘家や哲学者になりますが、この人たちはマジなのです。

マジな人同士でないと、お互いマジで付き合うことは出来ません。そうじゃない人同士がマジに付き合うと、必ずケンカになりますから、お互いネタで付き合うようになるのです。日本のネットマナーは、そのように発達したのです。

日本の大学は経歴を身に付けるためのネタでしかないのですが、そんな経歴をマジに受け取る人がいることで成立してるのです。と言うか、自分がマジに生きてないと他人をマジに評価することはできず、だから学歴というネタで判断するのです。

藤原正彦『遥かなるケンブリッジ』を読むと、マジな大学がどんなところが分かります。日本の大学は入学が難しくとも卒業は簡単で、教育及び研究機関としてマジとは言い切れないものがあるのです。