アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

生活世界と超訳

純粋な知覚としてみても、物体と身体とは本質的に区別されている。(フッサール)

知覚として現れる「現象」として、物体と自分の身体とが区別されます。現象として、そこに断絶があると、直感出来るのです。

自分の身体が物体とは異なるものとして現象していても、自分の身体もまた、物質としての側面として現象しています。

現象学的に見ると「現象学的還元」と「生活世界」という対立項が存在します。人は本来誰もが哲学的世界を生きますが、その哲学はことごとく「超訳」され、生活世界となるのです。この超訳された生活世界を元の哲学へと還元することが、哲学の一つの意味なのです。

人は誰でも本来的に難解な哲学的世界を生きてます。しかしそのことごとくが認識の過程において自明的な「生活世界」へと「超訳」されるのです。我々は例えば『超訳ニーチェ』の本だけを渡されそれがニーチェだと信じ込まされているのと同じです。超訳ニーチェからニーチェを還元するのが哲学的営みです。

超訳ニーチェのような「生活世界」から、どのようにして原著ニーチェのような我々の「哲学的世界」が還元し得るのか?つまり我々の持つ『超訳ニーチェ』の本には、ページの裏に原著ニーチェがちゃんと記されているのです。自らに書き記された「原著」を内省的に認識し、注意深く読み解くのが哲学です

超訳」に対する「原著」という例えは、ちょっと誤解を生みやすいかもしれません。つまり「原著=唯一の正しい答え」ではないのです。そもそも哲学の原著を読むと、そこには唯一の正しい答えなど書かれていないのです。シンプルな正しい答えを示しているのはむしろ「超訳本」の方です。

人はあらゆる事物をことごとく「超訳」します。誰もが糸崎公朗さんの「本当」なんて理解しようとせず、勝手に超訳して理解したつもりになっています。私自身も、本当の自分など理解しようとせず、自分で自分を超訳して済ませているのです。

人は哲学も宗教も芸術も、そのことごとくを「超訳」します。他人のことも、自分についても、哲学的に、宗教的に、芸術的に難解な要素はことごとく捨象した「超訳」として理解します。常識とは超訳です。