アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

「今」と記憶

素朴な感覚で「外部世界」と思えるものは心的領域に生じた《現象》です。とすると素朴な感覚で「心的領域」と思えるものは何か?反省して考えるならば、純粋に直接に「外部世界」として知覚し体験できるものは連続する瞬間である「今」だけで、「今」は直後から「記憶」という心的領域に移行します。

純粋に直接的に知覚し体験できる「外部世界」は、「今」と言う瞬間においてのみなされます。人にとって「目の前の現実は」直後に「目の前にあった現実の記憶」という心的領域にすり替わります。これは実に恐ろしいことです。

「心の中に閉じ籠る」とはどういう事でしょうか?現象学的に見れば「心の外」とは「心の中」に生じた《現象》に他なりません。《現象》としての現実は実に様々な要素で構成されます。いわゆる心の中に閉じ籠る人は、現実の構成要素のあるひとかたまり以外を、認識からカットしているのです。

「今」において直接知覚される現実だけが「現実」なのではありません。直接知覚された直後から「記憶」に変容した、直接的な現実とは言えない記憶を併用しなければ、現実の認識はできません。記憶する機能を失った人は現実認識に支障をきたします。

同じ場所にいて同じものを見ていても、人によって「記憶」が異なり、ですから見ている現実もそれぞれに異なるのです。また、記憶のあり方は人間とそれ以外の動物では異なっており、認識する現実も種によって固有です。

サギが川面に浮かぶゴミを魚と間違えて捉え、少し考えて魚ではないと分かって川面に戻し、しばらくして同じゴミを魚と間違えてまた捉え…と何度も同じ動作を繰り返す動画をYouTubeで見ました。サギは人間とは記憶力が異なり、見える現実も異なるのです。

記憶の質と量によって、見える現実は人それぞれに異なります。文字が読める人と読めない人では現実の見え方は異なります。時代によって、場所によって、職業によって、生い立ちによって、それぞれに記憶の構成は異なり見える現実も異なります。

人はそれぞれ異なる記憶を抱え込み、それぞれに異なる現実を見ています。ところが多くの人々は、皆お互いに同じ現実を見ていると素朴に信じています。その原因の一つは、現実の認識のそのやり方を人々がお互いに教え合っている点にあるのではないでしょうか?

人々はお互いに現実の認識の仕方を教え合いますが、ある時ふと、この仕方に依拠しながら「これはウソだ!」と気付いた人が哲学者になります。芸術が描き、芸術としての「写真」が写し出すのもこのことです。それが哲学の分岐としての芸術の意味です。

人々はお互いに現実の認識の仕方を教え合います。この時「あなたと私が見ている現実は同じものです」というウソを付きます。そしてこのようなウソを付かなければ、他人に現実の認識の仕方を教える事は出来ないのです。他人にウソを付かなければ真実を伝えることは出来ず、それがリテラシーの意味です。

素朴な人の認識は、あらゆる要素が一体となっています。だから例えば私と貴方は同じ一つの現実を見ていると思いなすのです。透徹した人の認識はバラバラの要素に分解されています。フッサールはカントの認識に対し、まだバラバラになりきれず固まりが残されていると批判したのです。

現実の直接的な知覚が生じるのは「今」ですが、記憶が想起されるのも「今」です。人は「今」において直接知覚と記憶とを重ね合わせて現実を認識します。人が認識する現実は実はレイヤーとして重なり、種類の異なるレイヤーがいくつか重なっています。