アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

感情と気候

311以降、私も日本人にはとことん絶望しています。私は日本人ですから、自分にも絶望しています。

自分に絶望していると言いながら、その実絶望が足りないのです。もっと深く、とことん自分に絶望しなければならないのです。絶望の深さは認識の深さです。絶望が浅い人は認識も浅く、自分には何がしか見所が残っているはずだと、有りもしない希望のイメージにすがっているに過ぎません。

自分の絶望の根拠は、自分が日本人である事です。ここをまず見据えなくてはなりません。つまり日本は偽物文化の国で、私の為してきたこともことごとく偽物に過ぎません。「本物」を知らずに偽物を摑まされ、自分自身も偽物を本物と取り違え生産してきたのです。

深い絶望に陥ることは、絶望の根拠を深く見通すことを意味します。絶望が深化くる毎に、その根拠の認識が深まります。私の絶望は、私自身が自ら偽物であることを望んだことです。私が専ら、思想哲学の入門書を読んできたのはその意味です。

私はイージーな偽物の知識を元に、イージーな方法で芸術のコンセプトを構築しようとしたのです。それは一方では、そのように仕向けられたのですが、一方では自分の意思でその屈辱的な方法を選択したのです。屈辱を受けるのは臆病者で、臆病者の屈辱は取り消すことはできません。

いったい自分の何が悪いのでしょうか?自分の愚かな選択は一方では自分の意思で、他方ではそのように仕向けられたのです。自分が悪いのは他人のせいでしょうか?自分には自分の「悪さ」の責任を負えるような「自分」があるのでしょうか?ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』によれば、自分が悪いのは「土地」のせいです。

自尊心が傷付いたり、屈辱を受けたりする「自分」はなぜ存在するのでしょうか?そのような自分の存在は妥当性があるのでしょうか?屈辱の原因が自分ではなくジャレド・ダイアモンドが言うように「土地」にあるとしたら、「自分」が存在すると思うことに妥当性がなくなってきます。

つまり「自分」とはその土地に特有の気候のようなものではないでしょうか?

ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』によると文明のあり方と「土地」のあり方には密接な関係があります。つまり人間の精神のあり方も、その土地のあり方と関係しています。つまり自分の感情の動きは、その土地の気候変動のようなものです。

感情だけでなく、自分が何を意思するかと言うその方向も、土地に影響される気候のようなものに過ぎません。確固たる意思で決断したつもりの事柄も、単に風に吹かれただけに過ぎないのです。「自分」とは風見鶏です。そして風見鶏には「自分」がありません。

人間の意志のあり方や感情の動きが、土地に固有の気候のようなものだとすれば、大切なのは風通しです。その意味で日本は、吹き溜まりで空気が停滞しています。だから私も暗く淀んでいるのです。