アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

直接知覚と記憶

不思議なのは、「直接知覚」は「今」においてしかありませんが、しかし「今」という一瞬の直接知覚だけでは知覚も認識も成立しない、と言うことです。
例えば目を閉じて瞬だけ目を開けてまた閉じる…それで何が認識できるかを確認すると、ほとんど何もわからないし見えていない、と言うことがわかります

聴覚にしてもそうですが、直接知覚としての、例えばある音楽の一瞬の音だけを抜き出しても、それは音楽としては認識出来ません。
言葉もそうで、直接知覚としての、ある一瞬の一音だけでは言葉の認識は成立しません。
人の知覚は直接知覚だけでは成立しないのです。

知覚と言うものは「今」という直接知覚のみでは成立せず、様々な種類の「記憶」を必ず伴います。
「直接知覚」に触発され、様々な種類の記憶が想起され、また記憶の想起が鮮明化されます。
直接知覚を伴わない記憶は不鮮明で曖昧です。

知覚と言うものは、「今」という直接知覚と、それに重なるさまざまな記憶によって成立します。
「今」と言う知覚は、直接知覚と、さまざまな記憶が何層ものレイヤーとなって重なり、なされます。
記憶のレイヤーの深さが、認識の深さです。
認識が浅い人は、記憶のレイヤー数が少なく、深度が浅いのです。

「今」という直接知覚は、直後から記憶として折り返され、知覚のレイヤーに加えられます。
そのように認識のためのレイヤーが、経験に伴い蓄積してゆきます。

別な言い方をすれば、人は現在と過去とを重ねながら世界を見ています。
過去と重ね合わせなければ、現在という時を認識することは出来ません。
その人の過去が、その人の現在を生み出します。現在にとっては過去が大事です。
子供は自分の過去を蓄積するために学びます。

フッサールラカンのような哲学書を読むのが難しいのは、「今」読んだ文章を記憶するのが難しく、その直後に読んだ文章と重ね合わせ、認識を成立させるのが難しいからです。
ですから難しい文章は二度三度と繰り返し読み、すると意味が読み取れるようになります。

現在を認識するとは、過去を認識することで、その意味でもプラトンの想起説は正しいのです。

思い出すためには記憶しなせればならないし、自分が記憶していないことを思い出すためにも、記憶を重ねなくてはいけません。
人は、自分が記憶している以上とことを、思い出すことが出来ます。
何故なら自分の記憶は他人の記憶だからです。
自分の知らないことを他人が知っていて、だから自分もそれを知っているのです。

認識とは思い出す事です。
「今」目の前のリンゴを認識する人は、さっき見た同じリンゴを思い出し、過去に見た別のリンゴを思い出し、ミカンやナシなど別の果物、ボールなど丸い形のものなどを同時に思い出し、その様な記憶のレイヤーに「今」という直接知覚を重ね、「今見ているリンゴ」を認識します。

芸術を見て、それが芸術だと認識出来ない人は、芸術についての記憶がない人です。
リンゴについての記憶がない人にリンゴが認識出来ないのと同じです。
芸術を認識するためには、芸術とは何であるかを繰り返し記憶する必要があります。
哲学や、その他についても同じです。

目の前の利益に囚われる人は、長期的な記憶を持たず、様々な種類の記憶を持っていないのです。

認識しない人は記憶もしません。例えば原発事故を認識しない人は、原発事故を記憶しないのです。

論語の「古きを訪ねて新しきを知る」とは認識の本質です。
私はここで「古きを訪ねて新しきを知る」という古い言葉を思い出したのです。
論語は全体として、プラトンの想起説の実践でもあるのです。

下記のTwitter読者からの質問に応えます。

@GreeenApple5 彼と同じ香水のにおいがして彼を思い出すのは、彼を繰り返し記憶したからってことですよね。論点ずれてたらすみません。

まさにその通りだと思います。その香水の認識が、自分独自の記憶と重なって、他人とは違う自分独自の認識になってるのですね。