便乗仏教
便乗仏教bot@MUR_Buddhism
駄僧と思えば
簡単に言えば
自らの存在をあえて駄僧とすることにより、日々他者の言動・行動に便乗し自らを悟りの極地へ誘うことを表す。
MURの「もういっかいいってくれ」とは
一度で解することのできない自分を駄僧だと認識しつつも、己を高めるために恥とも思わず何度も聞きなおす・繰り返
「便乗仏教」も「駄僧」も言い得て妙で面白いです。日本仏教は基本的に便乗仏教で、大半が駄僧…はちょっと言い過ぎかもしれません。しかし少なくとも本来的に仏教と葬式は無関係で、最古の仏典『スッタニパータ』には「葬儀は他宗教の者に任せなさい」と書いてあるのです。
そもそも「大乗」という言葉に「便乗」の意味が含まれているのではないでしょうか?便乗者がいなければ、大乗という大きな船は成り立たないのです。逆に言えば、求道者が乗る小さな船は便乗者お断りで、これに怒った便乗者たちが「小乗」を非難して「大乗」を成立させたのではないでしょうか?
日本仏教の最重要経典とされる「法華経」は、法華経という権威ある経典への便乗を説く、便乗仏教経典ではないでしょうか。法華経には「法華経という素晴らしい経典があり、しかし素晴らし過ぎて誰もその内容を理解できない」とだけ記されていて、そんな法華経への便乗だけが記されているのです。
日本仏教では、なぜ葬式に僧侶が般若心経を唱えるのでしょうか?それは般若心経の権威に便乗してる便乗仏教だからでしょうか?だからインドの経典の漢訳を意味の通じない音読で唱えるのでしょうか?般若心経の内容と、葬式と、何の関係があるのでしょうか?そもそも仏教と葬式とが無関係なのです。
日本の近代化は西洋文化への便乗なのでしょうか?便乗者とは、自らの推進力を持たない者です。自らに行動や思考の原理を持たず、他者に便乗するのが便乗者です。日本人は近代人として独自の思考や行動の原理を内在しているのでしょうか?
一般に、思わせぶりな表現をする人は、アートの分野でも、哲学思想の分野でも、便乗者の可能性が高いです。なぜなら便乗者は、自らに内在する原理を持って自走しないからです。自分は他人に便乗してるだけなので、思わせぶりな見てくれで誤魔化すのです。まさに法華経の構造と同じです。
便乗者に便乗者が便乗して、それが何層にも重なっているのが現代日本の状態なのでしょうか?誰もが便乗者で他人任せで、誰もがその原理に疑問の目を向けないのです。責任者が不在なのは誰もが便乗者だからです。
自らに原理を内在し屹立する人を、便乗者は排除します。なぜなら便乗者は便乗者に便乗しようとするからで、それが「大乗」の意味なのです。
便乗者は内在的原理を持って屹立する人を評価せず、嫌悪して排除しようとします。便乗者は自分が便乗者であることに疚しさを持っているからです。本物の金は偽物の金の姿を映す鏡ですが、偽物の金は相互に「本物である」と偽証するのです。
便乗者は相互に偽証し合うゲームをプレイします。そのようにして便乗の事実は隠蔽させるのです。ですから便乗の事実を告発する者、便乗者の姿を映し出す鏡となる者、自らの内在的原理により真実を追う者を排除しようとするのです。
そもそも「文明」というシステムそのものが文字通りの「大乗」なのでした。農業という技術そのものが、多くの人々を養う大乗としての文明を可能にしたのです。文明とは人々に食物を分配するシステムで、農業技術によって実現化した大乗思想なのです。
ゴーダマ・シッダッタは古代インド文明の王子様として生まれましたが、文明を捨てて出家しブッダとなったのです。ブッダは文明の大乗的システムへの便乗を拒否する事を、「自らに内在する原理」を打ち立てることによって、可能としたのでした。これは食物の問題と共に、哲学の問題なのです。
文明は人々に食物を分配するシステムであると同時に、哲学を分配するシステムでもあるのです。人はいかに生きるべきか?という問題を含んだ哲学を、文明は食物と共に人々は配分します。例えばもし「人殺しは悪である」「盗みは悪である」という哲学を拒否して行動したならば、その人は食物の配分を制限される事になります。
文明は人々に食物と共に、「いかに生きるべきか」という哲学を配分しますが、これに便乗することを拒否するのが哲学者で、ブッダもソクラテスも孔子もそうだったのです。芸術家も一方ではその延長上にあります。
便乗者と非便乗者とでは、どちらに正統性があるのか?歴史的にはどちらも古く、一概に決められません。しかし歴史的に永く語り継がれるのは非便乗者の方で、例えばブッダやソクラテスの当時の論敵の名前を、誰も覚えていないのです。便乗には普遍性がなく、普遍を追求する者は便乗から降りるのです。
便乗から降りなければ普遍は追求できず、これが出家の意味です。出家は文明への批判を意味し、文明批判をさらに批判した大乗仏教が、文明の本質を取り戻す形で再形成されます。便乗から降りた仏教者に便乗して、便乗(大乗)仏教が成立します。洋の東西を問わず、歴史はこれの繰り返しではないでしょうか?
人間は本質的に便乗者ではないでしょうか?つまり誰もが自らの能力によって自ら望んで生まれたわけではなく、たまたま人間に生まれた事に「便乗」して生きているのです。この事への自覚が、フッサールの説く「現象学的還元」ではないでしょうか?つまり人間が生きるとは、自らの知覚世界に生じた「現象」に便乗しているのと同意なのです。
なぜ便乗から降りなければならないのか?一つの理由は自分がアーティストだからです。便乗から降りて内在的原理を打ち立てなければ、新たなアートを産み出せないのです。一方には、アーティストとして何かに便乗しながら、社会的な評価を得る道もあるのです。いや実際にアーティストはこ、の二つに引き裂かれているのです。
便乗を否定するのではなく、便乗を対象化し自覚することが重要で、それがフッサールの教えではないでしょうか?
自分が便乗から降りたのには本当は理由などなく、便乗から降りた事実があるだけです。しかも私は完全に便乗を降りたのではなく、便乗して賞を頂いたり、公立美術館で展示したり、雑誌連載したりしてるのです。そもそもレオナルド・ダ・ヴィンチは宮廷画家の地位に便乗したからこそ、一方で便乗から降りられたのです。
便乗を瑣末に捉えてはいけません。人間は自分がたまたま生まれた事に便乗し、世界というものが無前提に与えられてる状況に便乗してるのです。人間は神ではなく、人間は神に便乗してるのです。輪廻とは便乗で、便乗からの解脱を説くブッダはそれ故に神を超えている(神々はブッダに教えを請う)のです。
神様は全ての生き物が便乗できる船を与えて下さってます。ところがこの船は不安定で人々が脱落しやすく、そもそも人は誰でもいずれはこの船を降りねばならないのです。そこでこの船の安定性を少しでも向上させるために文明が発生し、一方で神様の裏をかき便乗を降りる道を模索した者があったのです。
人は道を歩く時「歩き方」に便乗して歩いています。人がものを食べる時「食べ方」に便乗して食べてます。人は歩けない人に「歩き方」を説明できず、食べられない人に「食べ方」を説明できません。説明できないのは人がただ便乗してるだけだからです。
生活世界が眼前に与えられているという事がいかにして固有の普遍的な主題になりうるのであろうか。それは言うまでもなく自然的見方を全面的に変更することによってのみ可能なのである。#フッサール
世界は、我々の意識生活において、意味と存在妥当を持つのであるが、しかも、絶えず新しい形態の意味と、存在妥当を得て来るような世界として、また、それらを得て来るがままの世界として純粋に、かつ専ら主題となるのである。#フッサール
自然的な世界生活は世界を妥当させているが、そのような能作をしている生は、自然的な世界生活の態度では研究され得ない。それ故にこそ、全面的な態度変更を、即ち全く他に類のない普遍的な判断中止を必要とするのである。#フッサール