赤瀬川原平『東京ミキサー計画』の冒頭を再読してみましたが、やはり私はずいぶん影響を受けてました。
ここで赤瀬川さんが語る「芸術とは何か?」の再考が必要ですが、取り敢えずの問題は、私が「空体語」と言うものを一切受け付けない事で、それが赤瀬川さんとの大きな違いではないかと思うのです。
赤瀬川原平さんに限らず「芸術とは何か?」は人によって異なるし、幾つかのタイプがあるはずです。
それは例えば「宗教とは何か?」と同じで、特に日本のように多くの人が「無宗教」を自称する場合は特にそうなのです。
日本人の多くは「芸術には興味がない」「芸術はよく知らない」などと言いますが、それは多くの人が「無宗教」だと自称する事と重なるのではないでしょうか?
つまり多くの人は芸術的に「無宗教」で、芸術には興味がなく、芸術と自分は無関係だと思っている。
しかし、そうした人も実のところ各自の「芸術とは何か?」を持っているのではないかと思うのです。
なぜなら「無宗教」の人も自らの「宗教とは何か?」を、それぞれに明確なかたちで持っているからです。
例えば「無宗教は危険だ」という極めて明確なビジョンを持っている人がいます。
この信念は、明確な一つの宗教的態度とも思えるものです。
宗教の場合がそうであるように、「芸術には興味が無い人」も、いやむしろ「芸術に興味が無い人」に限って、明確な「芸術とは何か?」というビジョンを各自が持っているのではないでしょうか。
実際に私は「芸術に興味が無い」と自称する人から「芸術は人を楽しませ幸福にするべきだ」と言うような説教を受けたことがあります。
実に「芸術に興味が無い人」も自らの「芸術とは何か?」をちゃんと持っていて、これを滔々と語る事が出来るのです。
それは「宗教に興味がない人」が「宗教とは何か?」を明確に、滔々と、語り得るのと同様です。
例えそれが嫌悪や恐怖や偏見だったとしても、それぞれが明確な定義であるのは確かです。
赤瀬川原平さんの芸術論は、「芸術に興味が無い人」や「芸術に詳しく無い人」に向けて書かれているように見受けられます。
それは「無宗教」の日本人宗教学者が書く宗教論と同様で、私自身そうした入門書をたくさん読んできたのは事実なのです。
「芸術とはなんでしょう?それはよくわからないものです。」というように、法華経が法華経そのものを隠してしまう、そういうやり口が存在するのです。
芸術は哲学と同様に難解ですが、難解なものには本物と偽物の二種類があるのです。
偽の難解さは、ともかく物事をややこしくするのです。
「世間」に蔓延る「偽の難解さ」が人々の物事への理解を阻害し、人々を「世間」の内部へと縛り付けるのです。
そして私も、その流れの内に長い間あったのです。
最初期の哲学は決して難解ではなく、それでありながら哲学の真髄をあらわし奥が深いのです。
「芸術とは何か?」とは一つには「世間」からの距離です。
それは哲学というものが「世間」からの距離を表しているのと同様です。
多くの人が埋没する「世間」を対象化した視点が、芸術や哲学の基本ではないでしょうか?
とすると赤瀬川原平さんの「芸術とは何か?」はどうなのでしょうか?
日本に於ける「偽の難解さ」とは、つまりは法華経ではないでしょうか⁈
つまり、現代日本に於ける「難解な現代アート作品」は、実は法華経そのものなのかもしれません。
とすると、赤瀬川原平さんが語る芸術も、超芸術トマソンも、法華経なのでしょうか⁈
とすると私の「非人称芸術」も、まさにその流れの中にあったのです。
最古の仏典「ブッダの言葉(スッタニパータ)」を読むと、現代にも通じる具体的に役立つ内容で驚きますが、古来日本で最重要とされる「法華経」を読むと「法華経は素晴らしい」という賛美以外の内容が皆無なのにさらに驚きます。
現代の「難解なアート」はまさにそのようなものではないでしょうか。
日本の現代美術は法華経で、私も必然的にその流れのうちにあったのです。
ですので私の「芸術とは何か?」が「宗教とは何か?」の問題に抵触するのは当然だと言えます。
しかしそれは例外で、普通の日本人アーティストは芸術と宗教とを明確に分離します。
原因は恐らくは私が「空体語」を理解しなかったからです
法華経には「法華経はここに内容を書き記すことができないほど難解で、凡人には理解出来ず、だから素晴らしい」と書いてあるのです。
日本の難解な現代アートも、実は同じ構造にあり、自分もこれに反発しながら結局は同じ流れにあったのではないでしょうか。
私の問題は、日本特有の法華経文化圏に生きながら、その根幹の一つである「空体語」を何故かどうしても理解できなかったことにありました。
これは世間的には明らかに一種の精神障害に他なりません。