アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

輪廻転生と能力差

改めて「法華経」の一部を再読してみたのですが、ここに登場するお釈迦様は、随分と失望しておられます。それは自分に解り得た事柄は決して他人に理解させることができない、という失望です。

人間は本質的には平等のはずですが、事実として人によって歴然と能力差があり、法華経のお釈迦様はその「事実」と直面していると、見ることができます。この能力差を法華経では輪廻転生による「獲得形質の遺伝」として説明します。

つまり法華経において「悟り」を得たお釈迦様は、現世の修行だけでその境地に達したのではなく、過去何度も生まれ変わるたびに修行を重た結果として「悟り」に達するだけの能力を獲得したのです。その理屈で言えば人々によって現世における修行の段階は異なり、また一切の修行をない人もいるのです。

人々には、単なる頭の良し悪しを超えた「歴然とした能力差」があるのでは?という疑問を、私は3.11の事象から実感として持つようになりました。勿論、私は自分自身の能力を決して高く評価しません。しかしそれだけに、多くの他人は自分と異なり高い能力を有していると3.11以前までは信じていました。

3.11の事象で私が愕然としたのは、日本国内で「頭が良い」とされている人々の、能力の低さでした。勿論、自分自身の頭の悪さ、能力の低さは相変わらずですが、エリートとと言われる他人も含め、実はあまり変わりがないのではないか?という疑問を持つようになったのです。

しかし、頭の良し悪しや、能力の高低は、それを測る「基準」がなんであるかによって異なります。そして「基準」が異なる者同士での相互理解は不可能で、その絶望を法華経のお釈迦様は説かれたのではないでしょうか?そして「基準」が異なる相手に語りかける手段として「方便」が提示されるのです。

人には歴然とした能力差があり、その意味で決して平等ではないことは、自分の能力の低さを省みるとよくわかります。例えば私はフッサールを読んでもそこで説かれているものがどうしても理解できずにいるのです。一方でフッサールを理解する人、さらにフッサールその人がいて、能力差は歴然としています。

結局私は、法華経に書かれたお釈迦様の弟子シャーリー・プトラのように、師の言わんとするところを決して理解できない立場にいて、その事に何よりもお釈迦様が絶望されているのです。そこでお釈迦様がシャーリー・プトラに「方便」を語って聞かせると、素朴な弟子は小躍りして喜ぶのです。