アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

もの派と非人称芸術

芸術的な血筋として、私は岡本太郎の血を受け継ぎ、赤瀬川原平の血を受け継いでいます。
つまり読売アンパン以降の日本現代美術と言う意味で、私の非人称芸術は「もの派」の遅れて到来した兄弟であると言えるのです。
ところが私はもの派的な芸術への反発として「非人称芸術」を提唱したのです。

改めて考えると「もの派」と「非人称芸術」は、「もの」を対象としている点でよく似ています。
いやそれ以前に「もの派」と「超芸術トマソン」はよく似てます。
何が同じで何が違うのか?私は自分を考える上でも「もの派とは何か?」を考える必要があるかも知れません。

思い出しましたが、私は「非人称芸術」の根拠として、人間の自由の追求は無際限ではなく「身体」という限界点があることを示したのでした。
そしてそれは「もの派」的な芸術への漠然とした批判でもあったのです。
この認識の反面は明確な間違いで、反面はある種の正しさを含んでいる可能性があります。

私が間違っていたのは「芸術とは人間の自由の可能性の追求である」という事の意味を取り違えていた事です。
人間の自由の可能性は「生活世界」からの脱出を目指す「哲学」において追求され得ますが、かつての私は「自由」を「身体的自由」に還元して考えていたのです。
しかしこの取り違えは私に先立ち、「もの派」の作家たちがしていたのではないでしょうか?

かつての私が立てた理屈は以下のようなものでした。
芸術とは人間の自由の可能性の追求で、人間が自然な感覚で「良い」と思える限界点の先を行くのが現代芸術であると。
だから前衛芸術は必然的に「つまらなく」なり、それが人間の「身体」の限界となって現れる。
人間は身体の限界を超えた「自由」を享受できず、「身体の自由の限界」が即ち「芸術の可能性の限界」となる。

例えば人間には「腐った肉」を「美味い」と感じる「自由」を持ってはいません。
人間の、動物種として固有の「身体」によって、人間の自由は制限されているのです。
有り体に言えば「どれだけ詰まらないと思えるものを芸術として認識できるか?」と言うゲームに現代芸術が興じているように、私には思えたのです。

私がこの「ゲーム」を回避するあまり、一種の神秘主義に陥ったことは間違いだったとしても、当時の私の批判そのものも無効だったのかどうか、再考の価値はあります。
少なくとも「もの派」は哲学的基盤を欠いており、それが彦坂尚嘉著『反覆』に記された「李禹煥批判」の要であると、私には思えるのです。

私の新たな仮説ですが、芸術には「哲学的芸術」と、「身体的芸術」の二種類がある。
身体的芸術は一つの極として「身体の自由」の極限へと向かい、必然的に「つまらなく」なり、その「つまらなさ」が芸術としての前衛性の証となり、高い評価の源となる。
「つまらなさ」の中に芸術的神秘が宿るのを人々は見る。

「もの派」の芸術はつまりは「禁欲的」なのではないでしょうか?
禁欲主義は実のところ「身体主義」の産物であり、だから「身体的芸術」の行き着く先に「禁欲主義的芸術」があるのです。
そのような「禁欲主義芸術」の系譜が、戦後日本の現代芸術にはあるのではないでしょうか?

私の非人称芸術は、もの派的な禁欲主義に対して快楽主義的で、しかし神秘主義的な秘教の要素を備え、教養主義を否定していたために消費的で蓄積が効かず、この「蓄積が効かない」という点において、自分でも「何かがおかしい」と感じてはいたのでした。

禁欲主義の対義語が、必ずしも快楽主義だとは限りません。
初期仏典『スッタニパータ』で快楽主義は否定されますが、同時に苦行も否定されているのです。
「原始キリスト教」をと唱えた手島郁郎も「禁欲的なだけで信仰の本質を忘れた人々」を批判してます。

禁欲的な人は、ともすれば「禁欲」という中に逃げ込んでいるのです。ですので禁欲的という事だけによって、その人を評価することはできません。禁欲はあくまでも手段であって、禁欲を目的とすることは転倒であり、逃避でしかありません。私が手島郁郎に倣って「禁欲主義的芸術」を批判するのは、その点にあります。