仏教とガンダム
ブッダ以前の古代インド哲学『ウパニシャッド』(服部正明訳)を読んでいるのですが、素晴らしい内容に仰天しています。
一つ分かったのは、初期仏典はウパニシャッドのような古代インド哲学に属し、後の大乗仏教とは無関係ではないか?と言うことです。
中村元訳『ブッダのことば』の解説には、「パーリー語で書かれた最古の仏典『スッタニパータ』にはいわゆる仏教らしさが無く、だから本書はなるべく既成の仏教用語を用いずに翻訳した」と言うようにあります。
実際に読むとそれはまさに哲学であって、宗教とは異なることが分かるのです。
宗教としての仏教とは何か?
それは古代インド哲学の一つであるブッダの言葉を元にして作られた、宗教だと言えるかもしれません。
哲学は誰にでも必要で、それ故に本来的には誰にでも可能なはずです。
しかし実際には多くの人々が哲学を理解せず、それ故に、哲学の宗教への「置き換え」が生じたのではないでしょうか?
ここで突然ですが、仏教をガンダムに例えてみるのですが、古代インドの初期仏典は、1979年最初に放映された『機動戦士ガンダム』に相当し、1985年に放送された『機動戦士Zガンダム』以降の様々なガンダムシリーズは、大乗仏教に相当するのではないでしょうか?
最初の『機動戦士ガンダム』の放映当時は、続編もシリーズ化の構想もなく、それ自体が完結した物語でした。
ですので後に造られ始めた『機動戦士Zガンダム』以降のガンダムシリーズは、蛇足的な続編だとも言えるのです。
古代インドの初期仏教と、後の大乗仏教の関係も、同じようなものとは言えないでしょうか?
『機動戦士ガンダム』においてガンダムは唯一体だけですが、『機動戦士Zガンダム』以降の続編には様々なガンダムが登場するようになります。
同じように初期仏教においてブッダは一人ですが、後の大乗仏教では様々な種類の仏や菩薩が登場するようになり、複雑な宗教的世界観を形成します。
『Zガンダム』以降のガンダムシリーズは、様々な種類のガンダムが登場するその複雑さがファンを魅了します。
同じく大乗仏教も、様々な仏や菩薩が登場するその複雑な宗教的世界観によって、信者を魅了します。
そして、そのような「人々を魅了する複雑さ」を、最初の『機動戦士ガンダム』も、初期仏教も、持ってはいないのです。
つまりエポックメイキングとしての『機動戦士ガンダム』と、『Zガンダム』以降のガンダムシリーズは、ある意味まったく別物で、それぞれに異なる種類の魅力があると言えます。
同じように古代インドの初期仏教と、後の大乗仏教はある意味まったく別物で、それぞれに異なる種類の魅力があるのです。
例えば現在放映中のガンダムシリーズは『ガンダムGのレコンギスタ』で(私は未見ですが)、これを「ガンダム」として初めて見た子供は、最初の『機動戦士ガンダム』から遠く離れたこれを「ガンダム」だと認識します。
日本仏教もこれと同じで、古代インドの初期仏教から遠く離れた、中国伝来の大乗仏教を「これこそ仏教」と認識してるのです。
例えば『ガンダムGのレコンギスタ』に夢中の子供に対し、「それは本当のガンダムじゃない」と言って最初の『機動戦士ガンダム』を見せる事に、どれ程の意味があるのでしょうかか?
世代によって、個人によって、それぞれに異なる価値観があるとすれば、自分の知るガンダムを「本物」として子供に押し付ける事に、意味はあるのでしょうか?
同じように、日本仏教の信者に対し、「それは本当の仏教じゃない」と言って、日本に伝来しなかった初期仏典『スッタニパータ』の存在を知らせる事に、どれだけの意味があるのでしょうか?
インドの初期仏教と、中国伝来の大乗仏教が「別物」だとすれば、それぞれに異なる価値があり、自分の信ずる価値を「本物」として他人に示す事は(たとえ善意であっても)意味がないのではないでしょうか?
哲学とは本来的に誰にでも必要なもので、その意味で哲学は誰にでも可能です。しかし実際には多くの人は哲学を理解し得ず、その意味で哲学は誰にとっても必要とは言えず、実際に哲学が無くとも世の中は大体うまく回っていて、多くの人がそれに満足し、それが大乗仏教の意味ではないでしょうか?
仏教をゴジラに例えると、オリジナルと後のシリーズとの違いはより明確です。最初の映画『ゴジラ』は、科学者が科学の本質的な野蛮性に気付き、その反省から自ら命を断つ決断をする、シリアスなテーマがありました。それは後のゴジラシリーズやウルトラシリーズに受け継がれず、両者は別物なのです。
どのような分野も、オリジナルと後のシリーズ化とでは本質が異なり、それぞれに異なる意味と価値を有します。その意味で哲学とは何処までもオリジナルへ、さらなる根源へ、遡る行為と言えるかもしれません。プラトンが想起説を説き、フッサールが現象学的還元を説いたのは、その事ではないでしょうか?