アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

ウパニシャッドとサブカルチャー

人は誰でも時代に縛られますが、時代の束縛から逃れるには、他の時代を知り自らの時代を相対化する必要があります。
と言うわけで、古代インド哲学ウパニシャッド』を読んでます。

最古の仏典『スッタニパータ』は人の死について輪廻転生を前提にしてますが、それ以前の古代インド経典『ウパニシャッド』はそうではない点が意外でした。

ウパニシャッド』では、ある人が死神に「人は死んだら魂が残るのか、それとも無になるのか?」と問い、これに対して「それは神々も悩む問題で答えられない。かわりに美女と財宝と長寿を与えよう」と返す下りがあり、そのようなかたちで《超越》が示されることに衝撃を受け、感動するのでした。

また『ウパニシャッド』には、ある人が賢者に「世界の根本の、その根本の、そのまた根本はどうなっているのか?…」という問いを何度も繰り返し、これに賢者は次々に答えるのですが、終いに「これ以上の神格に関わることを問うてはならない」と戒める下りがあり、そのように《超越》が示されることに驚き、感動するのです。

私は『ウパニシャッド』が示すような《超越》に惹かれますが、一方ではその逆の極めて原始的で野蛮なものにも惹かれるのです。
ウパニシャッド』にはまた「生命への愛しさ」が示されてますが、私が惹かれる「原始性」とは「生命への愛しさ」なのでしょうか?

例えば私が昆虫に惹かれるのは、その生命の愛しさに惹かれるのです。
生命は原始的で野蛮で素朴で愚かであり、だから愛おしく魅力があるのでしょうか?
自分より優れた存在は尊敬の対象となり、自分より愚かな存在は愛おしさの対象となるのでしょうか?

お利口な犬や猫やイルカが可愛く思えるのは、その利口さによって「愚かさ」がより際立つからではないでしょうか?
もし人と同じ知性を持ち言葉を話せる犬がいるなら、人はそれを「可愛い」と思えるのか?
可愛さ、愛おしさは「愚かさ」と結び付き、愚かさとは生命の本質ではないでしょうか?

生命の本質の一つは「盲目性」にあるのではないでしょうか?
盲目性とは愚かさであり、だから愛おしく思えるのではないでしょうか?

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世界を知ることは自分を知ることであり、人は世界について自分について何も知らず、だからこそ自己分析によって世界を知ることができる。
という事で自分を省みると、私には半分以上「サブカルチャーの血」が流れている事に思い当たります。
私の育ったのは、まさにサブカルチャーの時代だったのです。

サブカルチャーの時代とは素人の時代、そして、消費の時代です。
あらゆる技術が素人にも扱えるよう自動化され、あらゆる知性が素人にも理解できるよう入門書化され、芸術は誰でも理解可能なサブカルチャー化され、そのような時代の中、私は育ったのでした。

結局自分はメイルカルチャーに惹かれながらもサブカルチャーの価値に縛られ、しがみ付いており、だからいつまで経っても芸術が理解できない!
サブカルチャーが示す誰にでも理解できるデザインを、本物の芸術だと錯誤し続けている。
自分が何事かを「良い」と思う感覚が低きに留まっている。

最近の私は「哲学」は何となく分かってきたのですが、芸術は分からない!
従って「写真」も相変わらず分からない‼︎
私が育った時代は自然科学の時代でもあり、これにも縛られているのです。

私が育ったのは、言わば「ビジュアル自然科学」の時代でもあります。
自然科学がビジュアルとして表され、それはなんの知識もない大衆を惹きつけるものであり、私も例外ではなく、未だこれに囚われているのです。