アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

存在と私

自分にとってかけがえのない、自分に固有で、大切だと信じているものは、実は代替可能、交換可能なものでしかないのではないでしょうか?つまり、私にとって「路上」は感動の源ですが、感動の源それ自体は「路上」以外のものと代替可能で、それが不可能と信じているのは自分だけなのてす。

自分以外に他者が存在し、自分と他者は交換可能、代替可能なのです。自分が存在しなくとも代わりは存在し、誰も困らず、それが他者が存在することの意味ではないてしょうか?自分の存在の無意味性を見据えるのが解脱です。

目に見える風景が私なら、「路上」も私、「世界」そのものが私で、あらゆる他者も私であって、私は他者と交換可能、代替可能で、「自分」がいなくとも誰も困らないのです。

世界がすなわち私なのです。しかし、私は世界の、すなわち私のうちのごく小さな一部を「私」だと誤解しているのであり、それが死への恐怖なのでしょうか。

私と二人の他者の三人とで会話をしていて、不意に私の存在が消えたとしても、二人の会話はそのまま続くのです。私がいなくとも世界は存在し続け、私がいないところの世界も存在し続けます。私とは世界そのものであるからです。

私が死ねば、私の存在は世界から消えます。しかし、私はすでに、世界には存在していないのです。例えば、朝私が自宅で目を覚ました時、私は街中のどこにも存在しないのです。それだけでなく、私の存在する場所以外、世界の何処にも私は存在しないのです。私は存在しない!