アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

見ることと見られないこと

人は「世界」に対して「環世界」を形成します。「環世界」は「世界」の内側に存在し、「環世界」と「世界」が同一化することは原理的にあり得ません。環世界を形成するのが先験的自我で、環世界の外殻が先験的自我です。環世界の内部に「世界の中に存在する私」としての自我が形成されます。

環世界とは精神的な身体と言えるかもしれません。高等な生物は複雑で大きな構造の環世界を持ち、下等な生物は小さく単純な構造の環世界を持ちます。ハエの環世界は小さくて単純なのです。イカの単純な身体構造の割には、複雑な環世界を有しており、それが認識力の高さとして現れているのです。

例えば私が道を歩くのは、私の環世界の中を歩くのです。あたかも回転する車輪の中を、ネズミが走り続けるようなものです。目の前の他者は、私の環世界に内部に生じています。そしてこれらの他者の似姿として、同じく環世界の内部に「自分」の存在を生じさせます。

例えば私が道を歩くのは、私の環世界の中を歩くのです。それはあたかも回る車輪の中をネズミが走り続けるようなものです。もし私が通りすがりに人を包丁で刺すと、私は捕まり罰せられる。それは私が走る車輪が外れたのではなく、それも予定調和の内であり、そのように正常に車輪は回り続けるのです。

現実は夢幻ではなく、罪を犯せば罰せられ、病気になれば苦しみ、事故に巻き込まれ死ぬこともあります。しかしそのような、法律や物理法則などを含むすべてが、自分の環世界の中に存在するのです。そして夢幻とは何か?実に、人の環世界はその大半が記憶によって出来ているのです。

「環世界」と「環世界の外部」との接触面が「現実」として認識され、現実によって環世界を満たす記憶に、夢幻とは異なる性質を与えている、のでしょうか。

人は見ることであらゆるものを他人から奪います。逆に言えば人は他人に見られることであらゆるものを奪われます。見られることで奪われるのは、例えば自分の自由です。他人に見られ監視される事によって、例えば道端で素裸になると警察に通報されます。ここまで大袈裟でなくとも人は相互監視しています。

人にとって誰にも見られないことが自由です。生態学的に言えば、誰にも見られない立場が食物連鎖の頂点です。ですから例えば、親の監視下にある子供は任侠やおもちゃなど、現実の小さなひな型が大好きなのです。それは誰からも見られることのない神の視点です。私のフォトモの意味は、一つはそれです。