アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

可能性と他人

「自分」というものを考える場合、「他人」という存在が無反省に前提されているのです。

例えば、目の前の四角いポストは、見る角度によって変形します。しかしどのように変形しようとも「同一のポスト」として認識されます。「同一の自分」というものが認識されるのも同じ理屈によるのです。

認識には時間が伴います。「そんな事はとっくに知ってる!」と言える事柄に時間は存在しません。

自己を解明しようとする人には時間が存在します。その意味で、時間が凍結している人も存在します。認識は時間を伴い、認識の終わりは時間の凍結だからです、

私は私であることを常に思い出すことで、常に私であり続けます。私は過去に私であったことを思い出しながら、現在の私が私であることを認識するのです。

ここで一つ実験なのですが、他人の作品を、自分が製作した自分の作品だと思って観るのです。つまり他人とは、自分がその他人であったかもしれない、可能性としての自分なのです。自分はたまたま自分として生まれ育ったけれど、もしかするとその人に成り代わっていたかも知れず、目の前のその作品を制作したかもしれないのです。

目の前の他者は、自分がその人であったかもしれない可能性としての自分です。目の前の他者の作品は、自分がその作者であったかもしれない可能性としての自分の作品です。あらゆる他者は自分で、あらゆる他者の作品は自分の作品です。自分は自分である必要はなく、自分は自分の作品を作る必要もないのです。

自分はかつて他人であったのです。小学生時代の自分は現在の自分のは異なる他人であったし、一年前の自分のブログでさえ他人の文章のように思えるのです。ですから逆に、目の前の他人が自分であってもおかしくないのです。

過去の自分は、いかに現在の自分とは異なる他者であっても、時間軸で繋がっています。目の前の他者は、自分と時間軸でつながっていない点で、過去の自分(という他者)とは区別されます。

しかし自分が生まれた時点まで遡り、自分が現在の自分として生まれず、目の前の「その人」として生まれ育ったであろう可能性を考慮するならば、目の前の他者は時間を介して自分と繋がり「現在の自分」「過去の自分」と並ぶ「可能性としての自分」となるのです。