アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

認識と泥棒

認識とは泥棒行為です。認識者はあらゆる物事を目によって泥棒しますが、多くの人はこの点において無欲です。

時間の使い方が上手いと言われる人は、自分の時間を盗むのが上手い人です。逆に言えば、時間の使い方が下手な人は、自分の時間を盗まれているのです。間抜けな人は、自分の時間が盗まれていることに気付きません。

真似ることの根源は、盗むことにあるのではないでしょうか?つまり、盗むと言う動物的な衝動が、見ることによって盗む=真似る行為を生じさせるのです。

コソ泥と大泥棒の違いは何か?コソ泥は自分に「盗む」と言う意識なしに、習慣的に手近な人のものをサッと盗むのです。大泥棒は「盗む」という行為そのものを対象化し、計画を練ってそれを実行します。人間の認識が「見ることによって盗むこと」であるならば、両者の違いは認識にも当てはまります。

世の中には盗むのが簡単なもの、盗むのが難しいもの、絶対盗めないもの、などがあります。コソ泥は、手近な簡単に盗めるものだけを狙い、難しいものを盗んでやろうという志を持つことはありません。そして、認識とは本質的に泥棒行為なのです。

盗もうにも盗むのが極度に難しいものが存在します。例えば、フッサール現象学がそうで、著作を読んでもその内容はとても盗めたものではありません。そこで誰もがより簡単に盗めるような、入門書が存在するのです。入門書とは盗品を切り売りする泥棒市場です。

人間の本質は泥棒で、そもそも動物の本質が泥棒なのです。リアルな泥棒は、動物としての本質を剥き出しにするからこそ、社会的に罰せられるのです。逆に言えば、人間の社会は、泥棒としての本質を制御することで成り立っています。

人間社会には、人間の泥棒としての本質が隠されています。ですから泥棒としての本質を剥き出しにしたリアルな泥棒は罰せられるのです。だからと言って、法を守る人々の泥棒としての本質が無くなった訳ではありません。それは隠されているだけで、確かに存在し続けているのです。

人間の本質は泥棒で、これを対象化してコントロールすることが重要です。そうでなければ、自分では全く無自覚のまま、手近なところで安易なコソ泥を繰り返す羽目になりますが、多くの人が実際にそうなのです。もちろん、リアルな泥棒ではなく、人間の認識が本質的に泥棒なのです。

国家は国民から税金を徴収し泥棒してるのでしょうか?山本七平によると、社会とはその構成員に食物を分配するシステムです。つまり社会性動物である人間は、泥棒集団で、国家はその一形態です。そして、人の認識は言語によりされますが、言語は社会的存在であり、この意味でも泥棒集団だと言えます。