アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

他者と変容態

 構成の見地から言えば、動物に対して人間は、正常の場合を現す。それはちょうど、構成の見地から言って私自身が全ての人間に対する原型であるのと同様である。従って動物は本質的に私に対して、私の人間性の異常な変容態として構成される。

フッサールデカルト省察

 「可愛い」と思えるものは何でしょう?その基準は人間の子供ではないでしょうか?人間の子供は大人に対して不完全な変容態だから「可愛い」と思えるのです。イヌやネコが可愛いのは、それが人間の子供のように、人間の不完全な変容態だから「可愛い」と思えるのです。

 昆虫を人間の不完全な変容態だと認められる人はそれを「可愛い」と思うことが出来ます。しかし昆虫を人間とは全く異質な存在だと見なしている人はそれを可愛いとは思いません。何をどこまで可愛いと認められるかはその人の認識によります。それは何をどこまで自分の変容態と認められるかを意味しています。

 あらゆる生物に対して博愛主義の人は、あらゆる生物を自分の変容態だと捉え、それ故にあらゆる生物を「可愛い」と思うことができるのです。この逆に、自分の変容態であると認められる存在の範囲がごく狭い人もいます。或いは、自動車やカメラなどの機械を自分の変容態と見なしてこれを愛する人たちがいます。

 何を自分の変容態として捉え、何を自分とは異質の存在と捉えるかは、人によって異なります。偉大な哲学者を自分の変容態と捉え、それを目標にする人がいます。或いは難解な哲学を読み込んでいくと、だんだんとそれが自分の変容態として捉えられるようになってきます。

 例えば、外国人や、異性や、精神障害者や、身体障害者や、犯罪者や、他宗教者などに対し、これらを自分の変容態だと捉える人と、自分とは異質の存在だと捉える人がいます。あるいは、自分が変容する可能性に開かれている人と、自分に変容の余地がない人がいます。

 偉大な芸術作品を、自分の作品の変容態として捉えることが、偉大なアーティストになるためには必要です。偉大な芸術作品が、自分の作品の変容態とはとても思えず、異質な存在と感じる人は、つまりそれが「いいものを理解してない」と言うことなのです。理解とは、自分の変容可能性を広げることです。

 人は自分を基準に、他人はその異常な変容態として捉えます。あるいは他人の整った容姿を基準に、自分の容姿はその異常な変容態として捉えます。或いは100点満点を基準に、その他の点数をその異常な変容態と捉えます。