アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

フッサール抜き書き

日常の実際生活は素朴である。我々は、日常の生活においては、既に与えられている世界の中に入って経験したり、行為したりしている。事物を単純にそこに存在させるのは、経験の思考的能作であるが、日常生活においてはそれらの思考的能作は、知られないままに働いている。#フッサール デカルト省察

経験している人は、経験の思考的能作について何も知らず、また同様に思惟の能作についても、何も知らないのである。しかしその隠れた能作のお陰で数や陳述された事態また価値や目的や作品が現れ段階的に構成されるのである。然し乍ら日常生活においてはそれらの構成されたものしか見られていない。#フッサール デカルト省察

実証科学は日常生活よりも高い段階にあるがやはり素朴でありまたそれは懸命な理論的技術によって形成されたものであるが一切のものの究極的源泉である指向的能作をまだ解明していない。#フッサール デカルト省察
 

カントは好んで、人は哲学を学ぶことはできない、ただ哲学することを学び得るに過ぎない、と言っているがこの事は哲学の非学問性の告白でなくて一体何であろうか。学問が、真の学問が達成されている限り人は何処でも同じ意味において教え学ぶ事が出来るはずである。#フッサール 厳密な学としての哲学

全体としてみれば数学や自然科学には私的な意見、見解、立場などの入る余地は全くない。しかし個々の点においてこのように私的な物があるとすればその限りにおいてその学問は出来上がってしまった物ではなく出来上がりつつある学問なのでありそして一般にもそのように評価されるのである。#フッサール 厳密な学としての哲学

哲学においてはありとあらゆるものが論争の的となっている。つまり哲学においては態度の決定は全て個人的や確信、学派の見解、立場に関わる事柄なのである。 (だから哲学は数学や自然科学のような意味での学問ではない、とフッサールは指摘している。)#フッサール 厳密な学としての哲学

自然科学者は全てのものを自然と見なそうとし精神科学者は全てのものを精神或いは歴史的形象と見なそうとする。その結果そのようにみなされないものをも曲解しがちである。#フッサール 厳密な学としての哲学

今特に自然主義者だけについて言えば自然主義者は自然、それも差し当たり物的自然以外の何物をも認めない。存在するする物は全てそれ自身物的な物つまり物的自然の統一的な連関に属しているものであるか、単に物的な物に依存して変化するもの、せいぜい第二義的な並行的随伴事実に過ぎない。#フッサール 厳密な学としての哲学