フッサール抜き書き
日常の実際生活は素朴である。我々は、日常の生活においては、既に与えられている世界の中に入って経験したり、行為したりしている。事物を単純にそこに存在させるのは、経験の思考的能作であるが、日常生活においてはそれらの思考的能作は、知られないままに働いている。#フッサール デカルト的省察
経験している人は、経験の思考的能作について何も知らず、また同様に思惟の能作についても、何も知らないのである。しかしその隠れた能作のお陰で、数や陳述された事態、また価値や目的や作品が現れ、段階的に構成されるのである。然し乍ら日常生活においては、それらの構成されたものしか見られていない。#フッサール デカルト的省察
実証科学は日常生活よりも高い段階にあるが、やはり素朴であり、またそれは懸命な理論的技術によって形成されたものであるが、一切のものの究極的源泉である指向的能作を、まだ解明していない。#フッサール デカルト的省察
カントは好んで、人は哲学を学ぶことはできない、ただ哲学することを学び得るに過ぎない、と言っているが、この事は哲学の非学問性の告白でなくて一体何であろうか。学問が、真の学問が達成されている限り、人は何処でも同じ意味において、教え学ぶ事が出来るはずである。#フッサール 厳密な学としての哲学
全体としてみれば、数学や自然科学には私的な意見、見解、立場などの入る余地は全くない。しかし個々の点において、このように私的な物があるとすれば、その限りにおいてその学問は出来上がってしまった物ではなく、出来上がりつつある学問なのであり、そして一般にもそのように評価されるのである。#フッサール 厳密な学としての哲学
哲学においては、ありとあらゆるものが論争の的となっている。つまり哲学においては、態度の決定は全て個人的や確信、学派の見解、立場に関わる事柄なのである。 (だから哲学は数学や自然科学のような意味での学問ではない、とフッサールは指摘している。)#フッサール 厳密な学としての哲学
自然科学者は、全てのものを自然と見なそうとし、精神科学者は全てのものを、精神或いは歴史的形象と見なそうとする。その結果、そのようにみなされないものをも曲解しがちである。#フッサール 厳密な学としての哲学
今特に自然主義者だけについて言えば、自然主義者は自然、それも差し当たり物的自然以外の何物をも認めない。存在するする物は全てそれ自身物的な物、つまり物的自然の統一的な連関に属しているものであるか、単に物的な物に依存して変化するもの、せいぜい第二義的な並行的随伴事実に過ぎない。#フッサール 厳密な学としての哲学