アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

才能論と弊害

 私の「非人称芸術」が明確に間違えていたのは、それが才能論を根拠にしていた点です。芸術とは何か?を天才による作品だと定義し、その上に非人称芸術の定義が組み立てられている、これは明らかに土台が間違っています。

 私の陥った才能論は、さらに二重化してたのです。私が見出した非人称芸術の理論は、宗教観を含めた総合的なもので、それなりの整合性を持ち、そのような理論を見出した自分の才能に満足し、これに囚われたのです。その結果、端的に言えば自らの学問的思考の可能性を閉ざしてしまったのでした。

 つまり才能論の弊害とは、どのような分野であれ、その人が学問する可能性を自ら閉ざしてしまうことです。有り体に言えば、頭のいい人も悪い人も勉強しなくなります。そもそも頭の良し悪しという概念が才能論によるもので、それに囚われてはならないのです。

 学問的思考は、あらゆる分野において「必要」なものであり、才能論的な向き不向きを問題にすること事態がナンセンスなのです。もちろん人による才能の違いはゼロではないですが、いわゆる本能が壊れたといわれる人間は、学習による効果が遥かに大きいのです。

 自分は頭が悪く、才能がないと思う人は、持って生まれた才能と、これまでの自分の学習の成果とを、取り違えているのです。自分は頭が悪いと思う人は、そう思い込んだために勉強を怠り、それによって頭が悪いのです。才能がないと思う人は何の努力もせず、それにより何の能力も獲得できないのです。

 才能論は自分をダメにし、日本人をダメにし、人間をダメにします。自分が天才だと思う人はそれ以上学習しなくなり、自分には才能が無いと思う人も学習を諦めます。多くの人は自惚れと同時にコンプレックスを抱え、その両方の理由から学習を放棄します。私が陥っていたのもまさにその状況でした。

 多くの人は才能論に囚われています。だから、自分の出来る事しかやろうとせず、その結果出来る事の範囲が狭くなり、総合的能力を身に付けられないでいます。視野が狭く、全体的認識による総合的な判断が出来ないでいるのです。

 才能論は、実にさまざまな認識を阻害します。例えば芸術に対する認識も、才能論によって阻害されるのです。つまり、優れた芸術を見分ける目を「持って生まれた才能」であると錯誤することによって、「芸術を見る目を養う」という学習行為の有効性が、目の前から隠されてしまうのです。