偽物と感動
芸術は観る人に感動をもたらします。では自分が感動したものが芸術なのでしょうか?自分が感動したということが、それが芸術であることの証拠になるのでしょうか?
有体に言えば、人は経験を積みながら「芸術とは何か?」を認識してゆきます。ですから経験の浅い段階で、芸術でないものに感動し、それを芸術であると錯誤する事態が不可避的に生じます。この場合は対象物は芸術の偽物であっても、その人の感動そのものは本物です。このズレが様々な錯誤を生じさせます
人は偽物に騙されて感動しますが、その際の感動そのものは本物です。偽物の芸術と本物の感動が、様々な錯綜を生じさせます。
本物の芸術も、偽物の芸術も、共に本物の感動を人に与えます。本物の芸術、偽物の芸術、感動、はそれぞれ別個の現象として、認識世界に生じるからです。たとえ偽物に対する感動であっても、感動そのものは現象として疑いなく認識世界に生じているのです。
芸術の認識とは「上には上がある」という芸術のレベルの認識でもあります。つまり芸術の認識が浅い人は、レベルの低い芸術の偽物を、レベルの高い芸術であると錯誤して、最上級の感動を生じさせるのです。
本物の芸術にも、偽物の芸術にも、どちらも人を感動させる作用があります。ですので分かりやすく言えば、私は偽の芸術に騙されたくないと思ったのです。そこで「芸術が人を感動させる」作用を反転した「感動が芸術を作る」という方法論が可能であると確信し、非人称芸術のコンセプトに至ったのでした。
「感動が芸術を作る」はしかし実のところありきたりな方法論で、実に多くの人々がこれを採用しています。しかし私はこれを「徹底化」しようとし、それが非人称芸術なのでした。
実のところ現代日本人の多くが、自分が感動した芸術が、芸術だと思いなしています。その芸術が本物であるか偽物であるかの基準を、自分の感動に置いています。芸術の本の偽物も共に人に感動をもたらします。誰もが偽物に騙されたくないと思っており「感動が芸術を作る」方法論が一般化してるのです。
自分の感動は本物です。故に自分が感動した作品が、本物の芸術作品なのです。感動が、芸術を作り出すのです。そして実に芸術の素人を偽の芸術によって感動させることはたやすいのです。偽の芸術が、「感動が芸術を生む」と信じる人たちによって、芸術に作り変えられます。
芸術は誰が創るのでしょうか?「神様が創る」という考えを私は捨てなければなりません。なぜなら、芸術が神によって創られるのであれば、それは「才能論」であり、才能論を私は方法論的に捨て去ることにしたからです。
「神が与えた才能により、芸術は創られる」という認識は文字通り神話でしかありません。実際に、芸術はそんなに甘いものではないのです。芸術は、神の創造物であるから稀少性があるのではないのです。神は万物を創造し、神の創造物はありきたりで希少性はないのです。
神が万物を創造し、故に神の創造物がありきたりであるならば、希少性のあるものは人間の創造物です。神が自然物を創造したように、神が人の手を通して創造したものはありきたりです。神の手をを通さず、人の手によってのみ創り出されたものにこそ、真に稀少性があるのです。
一方で、神は万物を創造し、故に神の創造物はありきたりであり、同時にそれは、ありきたりであるが故に稀少性があるのです。これも、非人称芸術の根拠でした。この価値観は整合性がある故に系が閉じており、私はそれに囚われている⁉︎
人はそれぞれに辻褄合わせをし、それぞれの辻褄の中に閉じ込められています。
人はそれぞれに辻褄の合った、整合性のある理論体系に囚われ、閉じ込められています。辻褄や、整合性と言ったものに、実にそれ以上の意味はないのです。
辻褄の合った理論体系に閉じ込められてはいけません。何故なら他者は、自分とは異なる仕方で辻褄合わせをした理論体系に閉じ込められているからです。その意味で、誰もがそれぞれに「正しい」のであり、間違っている人は誰もいません。にも関わらず、人々の正しさはそれぞれに「違って」いるのです。
人はそれぞれに正しく、間違っている人は誰もいない、と言うように指摘したのもデカルトでした。誰もが主観的には正しく、にも関わらず、正しさはそれぞれに食い違っているのです。
自分自身の整合性に囚われている人は、他者認識をしていないのです。何故なら他者は、自分とは異なる仕方の整合性を有しているからです。他者を「間違っている」と排除する人は、他者が有する自分のは異なる仕方の整合性を認識しないのです。
他者認識をしない人は、他者に恨みを持っています。あるいは自分自身に対する憎しみを、反転して他者に向けているのです。自分自身を愛する人は他者を愛します。自分だけを愛し他者認識しない人は、恨みと憎しみを生きています。