アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

通俗とコンプレックス

自分のイデオロギーに縛られていると、新しい知識や感覚を取り入れる事ができなくなります。イデオロギーには人を縛る力があります。現象学的判断停止とは、イデオロギーからの開放でもあるのです。

自分の外に出なければ「自分とは何か?」は分からないし、自分がやってきたことの外に出なければ「自分がやってきたことは何か?」は分かり得ません。反省とは「自分」の外に出ることです。

そのように反省すると、自分は思いの外通俗に囚われていたのです。通俗は、通俗から外れる事の臆病さを生じさせます。臆病な人は通俗に囚われているのです。

分かってきたのですが、コンプレックスを持つ人は、実は通俗に囚われているのです。コンプレックスの基準は、通俗にあるのです。通俗を基準にする限り、コンプレックスは不可避的に生じます。通俗とは相対的基準に過ぎません。ですから「普遍」の認識が重要なのです。

普遍とは何か?はコンプレックスに囚われている限り見えてくることはありません。コンプレックスに囚われている人は、通俗に囚われているのであり、通俗とは相対的価値基準であり、その意味で普遍とは正反対であるからです。逆に言えば普遍の認識は自分が囚われている通俗の対象化により可能になります

私には「絵が描けない」というコンプレックスがあり、それで写真家に転向したのですが、そのようなコンプレックス自体が、私がある種の通俗に囚われていることの現れだったのです。

私には「田中くん」という中学の同級生がおり、彼は天才的に絵が上手かったのです。私も小学校まで「絵の上手い子」でそれにプライドを持っていたのですが、これとは比較にならないくらい田中くんの方が圧倒的に絵が上手かったのです。これに私は衝撃を受け、以来「絵が下手」が自分のコンプレックスになったのです。

ところが今振り返って考えると、「田中くん」の絵の上手さは通俗的なもので、つまり彼はピカソの幼少期のように「写実画」が上手かっただけなのでした。

通俗的な意味で写実画が上手いことが、作品の良し悪しと無関係であることを、私は理屈では理解してました。しかし中学時代の強烈な体験を乗り越えられず「写実画が上手い人は才能がある」という通俗性に、根本のところで捉えられていたのです。だから自分の才能に失望し、写真に転向したのです

私は「フォトモ」をきっかけに自分なりの表現方法を獲得したのですが、それは同時に「絵を描かなくても作品が成立可能な方法」の獲得であり「もう苦手な絵を描かなくて済む」というコンプレックスからの開放でもあったのです。しかしコンプレックスは根底から解消されず、私は通俗に囚われ続けていたのです。

実は私は、写真のように写実的に描かれた絵を見ると、理性的にはその事自体に価値はないと思いながらも、同時に感覚的には「上手い絵だ」というふうに反応してしまうのです。それだけ私は根底的に「通俗」に囚われていたのです。

結局のところ、専門的にきちんと勉強しない人は「通俗」に囚われているのです。逆に言えば通俗から脱却するために、専門的な勉強をするのです。専門的な勉強をして、普遍を知ることによって、自分が囚われている「通俗」を対象化するのです。私はこの作業が不十分で、多分に通俗的なものを抱えていたのです。

私の「非人称芸術」は赤瀬川原平さんの「超芸術トマソン」を下敷きにしているのですが、赤瀬川さん自身はトマソンを学問的に、美術史に位置づけるつもりは毛頭無かったのです。つまり赤瀬川さんは通俗芸術論の人でしかなく、従って私の「非人称芸術」も通俗芸術論の発展形に過ぎなかったと言えるのです。

私の「非人称芸術」は岡本太郎『今日の芸術』の徹底化でもあったのですが、実に岡本太郎の芸術論こそが通俗であって、これが私だけでなく日本人の多くを未だに惑わし続けているのです。つまり「芸術は誰にでも可能だ」と唱えた『今日の芸術』が、逆説的に多くの人に芸術に対するコンプレックスを植え付けたのです。

コンプレックスの原因の全ては恐らく「通俗」ではないでしょうか?例えば学歴コンプレックスの原因となる学歴も通俗であり、実質的価値基準ではないということです。実際に高学歴者の無能性は3.11以降、ことに明らかになりつつあります。少なくとも現代日本の学歴は人間の価値尺度になり得ないのではないでしょうか。

私は3.11の事象を経て、さらにこれと前後した数年間、ソクラテスフッサールラカンなどの哲学書の原初翻訳を数年にわたって読むことによって、学歴コンプレックスという通俗から、ようやく脱出できたのです。それ以前の私は、哲学の入門書ばかり読んできましたが、それらはいずれも通俗でしかなかったのです。

哲学の入門書は誰にでも内容が「分かる」ように書いてありますが、それが曲者です。この場合の「分かる」とは「通俗的に分かる」という意味であり、これに対し哲学は本質的に通俗からの脱却だからです。ですから哲学書の原書翻訳を読んで「分からない」と言うことに悩む必要は無いのです。

難解な哲学書を「分からない」として読むのを諦めコンプレックスを持つ人がいます。以前の私もそうでしたが、それは通俗に囚われているに過ぎません。哲学を「分かろう」とすること自体が通俗的態度だからです。

私の体験で言えば、例えばラカンの原初翻訳は難解の極みでほとんど理解不可能ですが、脳への刺激は非常にあって、読めばそれだけ自分の考えも捗るのです。そのようなことが自分なりに「分った」のは、月一回のラカン読書会に参加して「分からない」という気持ちを我慢しながら5年ほど経ってからでした。

芸術の話に戻ると、私の芸術観は通俗論を脱却しようとしながら、根本のところで通俗論に依拠していた、という転倒状態にあったのです。しかし多くの日本人アーティストはもっと素直で、通俗的な「芸術とは何か」に自分を合わせてその範囲で作品製作をするのです。

私が疑問に思っていたのは、例えば現代日本の多くの写真家が「自明の写真」に基づきその範囲内で作品製作を行っていることです。ところがそのような疑問を持つ自分自身が、「自明の芸術」に囚われていたのです。「芸術は自明性の破壊である」と言う芸術観そのものが自明であり通俗なのです。

通俗からの脱却は、通俗を捨てることを意味するのではなく、通俗の外部に出て、通俗そのものを対象化し認識する行為を意味しています。つまり通俗の内部に留まっている人は、通俗そのものを対象化できず、何が通俗なのかも認識できないでいるのです。私の経験でわかったことです。