アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

越権と気後れ

アリストテレスは人間は自然性において奴隷的であり、この奴隷性から解放された暇において哲学がなし得ると指摘しています。そして、奴隷性から完全に解放され究極の暇を手に入れた状態とは神の領域であるから、哲学とは本来的に神への越権行為だと説いています。

という事は、人はその自然性における奴隷性において、哲学する事に対して、神への越権行為としての「遠慮」や「気後れ」を感じているのです。そして実に私の場合も、そのような遠慮や気後れに長い間縛られ続けてきたと考えると、ずいぶん納得できるものがあるのです。

アリストテレスが指摘する如く、人間とは奴隷です。たとえ皇帝であっても、腹が減ったら食べなければならず、またトイレにも行かねばならず、そのように自分の身体に対し奴隷的に仕えなければなりません。また皇帝であっても自らの死は自らの思い通りにならず、全くもって奴隷的なのです。

人間はその自然性において奴隷ですが、同時にその不自然性、人工性において神への越権行為〔哲学〕をなし得る両義性を備えています。

私がしてきた事〔非人称芸術〕とは何か?反省的には奴隷の哲学だという事ができます。奴隷は考える事〔神への越権行為〕に対し制限がかけられている。例えば小説『家畜人ヤプー』には家畜の「馬」にされてしまった哲学者が出てきますが、彼は限られた認識の中で、不十分で古臭い哲学を行います。

それはイギリス人の末裔によって家畜化された未来の日本人の惨めさとして描かれています。SF小説としての『家畜人ヤプー』は現実の日本人の状況をそのようなアイロニーによって描くのです。そして私の〔非人称芸術〕とはそのように奴隷化された思考の産物であり、現代日本の知性とは大同小異なのです。

私が落ち込むと同時に、それほど落ち込む必要がないと思うのは、いかに私の思考が奴隷的な不十分なものであろうとも、そもそも戦後日本の知性が奴隷的思考の不十分さをベースにしているのであり、私が別段劣っていたわけではなかったからです。この事は3.11をきっかけに決定的に明らかになりました

今の私にできる事は、反省だけです。反省して、奴隷的思考としての〔毒〕を抜く事です。人はその奴隷的境遇から逃れる事は決してできません。しかし少しでも〔暇〕を作って神への越権行為〔哲学〕を行う事です。奴隷的な遠慮や気後れを注意深く排除し、勇気を持ってこれに挑むことです。

私の〔非人称芸術〕は芸術のイデアに相当する〔芸術そのもの〕を(プラトンを知らずに)見出した事を根拠にしてましたが、イデアを根拠とするのであれば芸術以外のイデアも同時に設定し総合的に思考を構築しなければならないはずで、そうした完全さが(奴隷的気後れにより)欠如していたのでした。

哲学する事は実は簡単で、臆する事なくプラトンアリストテレスを読めばいいのです。対して「やさしく」書かれた哲学の入門書や解説書は、実のところ奴隷的な遠慮や気後れの産物に過ぎないのです。人は誰でも奴隷であると同時に奴隷ではないのです。

ある意味において、哲学の対義語は奴隷です。例えば李氏朝鮮時代の最下層賎民である白丁は「文字を知ること、学校へ行くことの禁止」をされていたのです。

私がなぜ哲学をやりたがってるかと言えば、それは芸術のためなのです。芸術をはじめとする学問の最上位に哲学があり、哲学が理解できなければ芸術も理解できないからです。いや実はプラトンアリストテレスも、色形ある手作業としての芸術を否定しています。その否定を乗り越えたところに芸術はあるのです。