アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

写真とモノ

アジェ・フォトというサイトを見てますが、やっと「写真」の見方というか、向き合い方が分かってきました。先にも述べましたが私は「非人称」という概念によって「他者」と向き合うことを避けてきたのです。それでは「写真」は理解できません。

http://www.atgetphotography.com/Japan/

私は「モノ」に惹かれていたのです。カメラというモノにです。そして「写真」はモノではないのです。私がいうところの路上の「非人称芸術」もモノです。しかしそれは実のところ、モノを超えた「現実界」であるのです。しかし写真は現実界ではありません。だから私には理解し得なかったのです。

一般的に写真雑誌を読む人は、写真好き、カメラ好き人、被写体好き、に分かれます。もちろんそれぞれ重なっている人もいます。私はカメラと被写体が好きで、写真はよく分かりませんでした。カメラも被写体もモノですが。写真はモノではありません。モノ以外が分からない人は写真も分かりません。

「モノ」だけしか分からない人は単純です。ですから私はモノを超えた「現実界」の存在に、あることがきっかけで気付くことが出来たのです。それが私の「非人称芸術」のベースになったのです。ところがモノを超えたところの全てが現実界であるという認識は、明らかに不十分で間違っていたのです。

私が「非人称芸術」のコンセプトを着想した当時は、ラカンの存在もラカンの「現実界」の概念も全く知りませんでした。今になって振り返るとそれは「現実界」に相当するであろうと反省的に捉えられるのです。「現実界」とは科学が切り開く領域でもありますから、科学の時代に育った私が独自に「現実界」を把握するのは自然な事です

現実界」を芸術の中心部と誤解していた私は「象徴界」についてもっと意識する必要があるのです。実は昨晩、旧約聖書をちょっと読んでましたが「皮膚病の治し方」や「屋内に生えたカビの取り方」などを神様がモーセを通じて事細かに指示しているのです。この合理性を超えた理不尽さが象徴界の凄みです。

象徴界は実に凄い!この凄みが象徴界です。そして現実界もまた凄く、その凄みが現実界です。世界は驚きに満ちていて、その驚きが学問の第一の出発点であると、アリストテレス先生も説いています。

やっと本当の意味で分かってきたのですが、人は一度の成功体験に以後縛られるのです。私にはモノの向こうに現実界を見たという成功体験があり、そこから非人称芸術のコンセプトが生じ、フォトモ他一連の表現を確立できたのです。しかししばらくすると、それらの成功体験に自分自身が縛られるのです。

過去の成功体験によって、自分の何が縛られるのでしょうか?生物学的に言えば人間のネオテニー(幼形成熟)としての成長が縛られるのです。人は成熟しても子供(幼形)と同様の好奇心と学習能力を持ち成長し続ける、というその好奇心、学習能力、成長が過去の成功体験によって阻害されるのです。

私はどのようにして独自に「現実界」を認識するに至ったのか?それは大したことではなくごく単純なことで科学知識によってです。科学的に見るならば人間の五感は限定的で、人間にとって五感で感知し得ない「外部世界」が存在し、その「認識の外部世界」を理屈や知識を超えてありありと実感したのです

自分が見ている「世界」は主観的には「ありありとした現実」です。しかし科学的にみればそれは網膜に写る「平面像」でしかありません。ですから自分が見ている現実世界の向こう側に、見ることの出来ない「現実を超えた現実」が存在するということが想定できるのです。その存在を、私は理屈や知識としてではなく、ありありとした実感として、捉えることが出来るようになったのです。

我々が「現実」だと思っているものは実はイメージの産物でしかなく「本当の現実」と言えるものは全く別のものとして存在します。そのようなイメージとしての現実を超えた本当の現実を捉える感覚が「現実界」のあり方の一つです。例えばコペルニクスの地動説とはそうしたものです。