アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

邪悪と自明

邪悪とは何でしょう。動物の本質が邪悪だとすれば、邪悪とは自明性を生きることです。その反対が善良であるなら、善良とはクリエイティビティであり、クリエイティビティを阻害する自明性が邪悪なのです。

YouTubeなどには様々な動画が上がってますが、これで観察すると動物における善良さは、本能のエラーとして現れるように見受けられます。シカに友情を示すカワウソや、子ジカを保護しようとするライオンなどの例です。これらは本能のエラーで、だからクリエイティブで、善良なのです。

悪をなす人に悪意は無く、ただ自らの「自明性」に従うことだけが悪なのです。

科学の本質は邪悪です。科学は人間を自明性の世界へと押し留めます。科学は人に変化を要求しないのです。科学が変化させるのは人間の外部世界です。科学の変化とは新しい自明性の発掘であり、従って本質的に科学は自明性を問うことがないのです。

フロイトの思想は絶えず修正を受け入れる思想です。フロイトの思想を使い古された語に還元するのは誤りです。フロイトの思想においては、すべての概念がそれ固有の生命を持っています、それはまさに弁証法と呼ばれているものです。#ラカン フロイト技法

科学!日本人は科学に毒されています。それは私も例外ではありませんでした。科学とは新たな自明性の発掘作業であり、自明性そのものを根本から問うことはないのです。つまり科学は世界を変化せしめ、人間に変化を求めない。だから精神分析は科学になり損ね、薬物治療が精神医療の中心になったのです。

つまり科学としての精神医療は、人間精神を司る脳を「外部」と捉え、これを変化させることを「治療」だとしているのです。そして実際、自分の精神の変化を望まない患者にとって、この治療法はその意味で効果的なのです。

 

動物は人間的な善悪を超えているのではないでしょうか。

 

コメント感謝です。進化論的に考えると、まず動物の身体は「腸」だけのような生物に様々なオプションが追加される形で進化しました。動物の認識世界そのようにオプションの追加で進化し、最後に人間だけに加わったのが「善悪」というオプションです。 

もひとつ言えば動物は本能と物理法則を根拠に行動します。しかし本能が欠如した人間は互いに「約束」を交わし行動の根拠とするのです。この約束を守ることが「善」で約束を無視するのが「悪」です。本能が壊れた人間だけが違いの約束を必要とします 。

犬は人間の約束を守りますが、その性質は群れのボスに従うという、種の本能に従っているだけで、人間同士の約束とは本質が違います。人間の約束は言語という最後に加えられた人間だけのオプションによって可能になります。

善意とは動物的本能のエラーです。ですのであらゆる善意は動物的本能(の代替物である自明性)へと押し戻されるのです。