アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

不幸と不公平

こんにちは、流れすべて読ませて頂きました。勉強になります。そういう親に厄介払いされるこどもたちをどう扱ったらよいのでしょうか?住み込みのリゾバでも勧めたら良い?打開策を糸崎さんやイルチーボさんと一緒に考えたいです。

 

返信遅れてすみません。無責任な第三者的なことしか言えませんが、難しい問題です。そもそも人は生まれる場所や時代を選べず、従って親を選べず、「自分」の容姿や才能を選べず、極めて理不尽で不公平です。 

あらゆる人は不幸であり、人々の不幸には大小があり、極めて理不尽で不公平です。いわゆる「毒親」の問題もその一つです。人は両親を選んで生まれることはできないのです。しかし古来から賢者は人が背負う「不幸」を決して否定しなかったのです。例えばキリストは「悲しむ者は幸いなり」と説いたのです。

端的に言えば、大きな不幸を背負ってそれを克服した人は、それだけ強く賢くなれるという事です。大本の出口王仁三郎は言いましたが「小人は小さな幸福に安住し大きな不幸がない代わりに大きな幸福もない」のです。

ソクラテスはなぜ毒杯を仰いだのか?当時の状況ではソクラテスは簡単に脱獄できて、アテネを離れて暮らす事ができたにも関わらずです。ソクラテスは脱獄して「小さな幸福」に安住してしまう事を恐れたのです。そして死を目前にして、自分がいかに幸福であるかを弟子たちに向かって滔々と語るのです。

ソクラテスの例だけでなく、キリスト教では自分が負った不幸は「神が与えし試練」と捉えられ、日本仏教でもそれは「克服すべき前世の因縁」とされてきたのです。現代においても「生まれの不幸」の問題は歴然と存在します。フロイトラカン精神分析もその新たな解決方法の一つです。

フロイト精神分析は端的に言えば「治る気がある人しか治せない」のです。無意識の抑圧は「見たくない」領域であり、それと対峙するには非常な恐怖や痛みを伴います。そして非常に時間が掛かりますが、そうした努力のできる人に精神分析は効果があるはずです。

しかし人は誰もがそのように強いわけではありません。人は誰もが不幸で、そして不公平なのです。人々の持つ精神的強度は様々であり、強い人もいれば弱い人もいます。ですから誰にでも「強さ」を要求する事はできません。人は一方では弱くあっても赦される存在で、文明がそれを可能にしています。

物事には常に二面性があります。例えば昨日NHK杯羽生結弦さん見ましたが、「血の滲むような努力が報われました」と喜んでました。つまり人は誰でも「血の滲むような努力」によって自ら負わされた不公平な不幸を克服できる一方で誰もがそんな大変な事をする必要がないのです。