アート哲学・糸崎公朗blog3.2

写真家・美術家の糸崎公朗がアートと哲学について語ります

認識と外部

私は認知科学などの知識から、人間の認識世界の「外部」の存在を直感していたのですが、その直感は真の意味での直感ではありませんでした。認識世界の外部は文字どおり直感不可能であって、それは理屈の上で想定されるのみで、私はその理屈に納得していただけで、それを直感と取り違えていたのです。

例えば人間には赤外線や紫外線は見えないし、超音波も聞こえず、犬が嗅ぎ分けられるような微妙な匂いを感じ取ることもできません。そのように人間の五感には限界があり、この事実によって人間の認識世界の外部に、人間の認識を超えた世界が存在すると、考えることができます。

あるいは、人間は三次元の立体世界を見ているつもりで、その実、目の網膜に映る二次元の平面像を見ているのです。この事からも、目に見える平面像の向こう側に、決して見る事のできない外部世界が存在することを、想定する事はできます。

しかし現象学的に見れば、これらの考えはまさに「考え」でしかなく、実際にそうであることを確認することができず、つまり自己所与性がないのであって、意味がないのです。人間の認識世界の外部を想定することは、一見もっともらしいようでして、実際もっともらしい想定の範囲を超えないのです。

目に見える世界が、実際その通りに存在すると思っている人は素朴です。そして目に見える世界は見せかけに過ぎず、その外部世界が別の姿で存在するはずだ、と考える人も素朴なのです。そのような人は、見事な推理をしただけで、犯人を捕まえたと勘違いしているにすぎません。

「目に見える通りの世界が実在する」と信じている最も素朴な人は、何の推理もなく魔女狩りする人と同じで、直裁的です。「人間の認識世界は見せかけで、その外部世界が存在する」と考える人は、壮大な仮説を立てて推理した挙句、犯人を取り逃がす名警部殿と同じです。

そのように素朴な人に現象学とは何か?哲学とは何か?を理解させるには、入門書的な別の説明が必要で、実に私も長い間その領域に落ち込んでいたのです。哲学とは分かる人にしか分からず、分からない人には分からない人向けのアレンジが必要で、日本の仏教はそのように発展してきたのです。そのように哲学には二つの哲学があると言えるのです。